「子どもは小さな大人ではない」
  これはルソーの言葉で、彼は「子どもの発見者」と呼ばれている。
   ルソー以前は「子どもは小さな大人」として扱われていて、精神的にも肉体的にも大人と同じだけれど、ただ体が小さいだけの存在であると考えられていた。そのため、大人と同じような仕事もさせるし、大人の思考で子どもの教育を考えていた。
   しかし、子どもは小さな大人ではなく、子どもには子ども時代という、それ自体が固有の世界があり、子どもの成長過程に合わせた教育をすべきだ、とルソーは主張したのだ。そしてそれは現代の幼児教育・保育の基礎となっている。

   ところで最近「大人も楽しめる絵本」が流行っている。絵本に限らず「大人も楽しめる〜」というのはわりといろんなところで目にし耳にする。それはそれで悪いことじゃないんだが、大人も楽しめる、というのはあくまでも「子どもが楽しいものがたまたま大人も楽しめた・あるいは大人にとっても楽しさを見いだせるものだった」ということであってほしいとも思う。どうも「子どもは小さな大人」というような発想で作られているようなものもあるような気がする。そしてそれは一見「子どものために」と言いながら、単に大人の自己満足や大人の価値観の押しつけ、あるいは子どもと大人をひっくるめて消費の対象としか考えていない場合もあるようで、少しばかり気持ち悪い。

   ちなみに学童期の道徳的発達はだいたい以下の3段階に分かれる。

1 幼児は自分にとって絶対的な存在である親がしてもいいということが善であると考え、親がしてはいけないということが悪だと考える。(7歳くらいまで)

2 道徳は絶対的なものではなく、その時々の情勢によって変わるものであることを理解する。道徳の相対化。(9〜10歳)

3 道徳は適用される相手によって変わることを理解する。たとえば相手が自分よりも小さかったり弱かったりする場合には手加減をしなければならないと思うようになる等。道徳の適応化。(10歳過ぎ)

   こういうことを踏まえて考えると、9歳で「道徳は相対的なものだ」とわかるものを、絶対的なものとしてなんらかの道徳を教え込むのは、単なる大人の押しつけであるということが分かる。おそらく、道徳は相対的と理解しながら、大人が喜ぶ方が得することが多いという功利主義的な能力に長けた子どもだけが評価されることになるだろう。嫌な世の中だ。

   最近の、おかしな教育論を押し進める大人や政治家たちを見ていると、どうも「子どもは小さな大人ではない」という基本がわかっていないようだ。そしてそれは「大人も楽しめる〜」というのを無条件に喜ぶ「普通のオトナ」にも潜んでいる落とし穴のような気がする。