娘を保育園に送り届ける日々がもうすぐ終わる。約5年間、ほぼ毎朝自転車に乗せて保育園に行っていたので、僕としては卒園式よりも感慨深い。大げさかもしれないけれど、自分の人生においてこの体験はおそらく最後になるのだろうから。
子どもが僕の生活に加わってから感じることはいくつもあるが、ひとつは「失うことがあれば得られることもある(かもしれない)」ということだ。
間違いなく、独り身のときよりも今の方が、自分自身のことにかけられる時間は少ない。いや、少ないどころではなくて、激減と言わないと追いつかない。
実際の僕のルーティンな生活パターンは、朝5時に起床して朝食とお弁当づくりをはじめ、食事をし、自分と子どもの身支度をして、保育園に送る。そのまま電車に乗って出勤。定時は17時30分だが、その後もやることがあれば働くし、仕事が忙しくなかったり、妻に仕事があったりするようなら、調整して自分が保育園に迎えにいく。迎えにいくときは夕食も作る。同時に洗濯機を回す。そして、短い時間だけれど一緒に遊んだり風呂に入れたりして寝かしつけると21時を回っていて、酒を飲んでいると、もう眠くてたまらないので22時くらいには自分も寝てしまう。早寝だけれど実質1日17時間働いているような気分のときも多々ある。一時期は無理して夜遅くまで起きてみたり、逆に朝4時に起きてみたりしたのだけれど、疲労がたまってしまい、頭痛に悩まされてしまったりした。結局、起きていても眠いので効率と質が悪く、あまり意味がなかったので、潔く寝ることにしたのだった。
そんなわけで、自分の時間はかなりなくなってしまった。それに対して不満がないかといえばそんなことはなくて「もっと時間があればなあ」と日々思っている。
ただ、「失うこと」によって「得られたこと」もあるのだな、とも思う。よく言われることだけれど、育児から得られる体験、そこから得られる新たな世界や知識、面白さや楽しさというものがあるし、それによって新たな「ものの考え方」も得られた。
そして、時間が無くなったことによって、残された時間をかなり集中して使うようになった。無駄に使いたくないので、「本質的なこと」だけを知りたい、学びたい、という意識が強くなった。とにかく、電車に乗っている行き帰りの50分で出来ることをやるようになった。その時間もないときは、仕事の手が空いているときや歩いているときなんかに、なんだかずっといろんなことを考え続けていて、そのせいで昔より躓くことが増えてしまった(笑)。だいたいそういう時に頭の中でひたすら言語化して整理するようにしていて、それを、このブログやFBなどにとりあえずメモ代わりに吐き出している。
そんなふうに「時間が無くなった」と嘆くようになってから、なぜか保育士試験の勉強をはじめて資格をとった。本を共著で出すことができた。自分の仕事以外にも音学校という場に関わることになった。これはどういうことなんだろう、と思うのだけれど、こんなふうに、何かを失うことによって、何かを得ることもあるのだな、と思うのだ。例えば視力の弱い人が、音に敏感になったりとか、言語能力が欠けている人が絵画の能力が著しく高かったりするようなことにも似ているかもしれない。
「しかし」と思う。何かを失うということが、自分自身の中で、自分自身の価値観や特性に基づいて自らが選択した場合には、もしかすると「失うことで得ることもある」のかもしれないけれど、「失うこと」が「他人や社会に奪われる」ということであれば、単に喪失するだけということになってしまうのではないだろうか。
ときには、他人の要求によって何かを我慢したり、何かを差出したりする場合があって、その他人からなんらかの「報酬」を得られることがあるかもしれない。しかし、そういう場合はこっち側が損をするようになっていることも少なくないし、主導権は相手側にあるのだから、常に不安な状況におかれてしまうということになりかねない。そうすると、結局失ってしまうことの方が多くなってしまうのではないだろうか。
また、「失うことによって得ることもある」という話は、自分で書いていながら変な話になるが、人に理不尽な我慢を強いるときの常套手段だったり、本当は納得していない自分の気持ちを無理矢理納得させるためのロジックだったりすることもあるので注意が必要だとも思う。
それでも、やはり「失っても得るものがある」のだ。この言い方がまずいなら「人間ひとりの持つ価値は、決して減らない」ということなのではないだろうか。どんなことがあっても、自らの意志と、自らの価値基準と特性に基づいて生きている限り、またそのように生きていられる限り、ひとりひとりの価値は消えてなくならない。ただ、その時々凹凸が生じてしまうかもしれないが、その体積は変わらない。
反対に、誰かのために、何かのために、我慢をさせたり、何かを提供させたりすることは、その本来減ることのない人間の価値を削り取っていくようなことなのかもしれない。原則的に、ひとりひとりが持っている価値は、他のなにかとは交換することができない。一見、何かと交換して何かを得ているように見えても、それが健全な関係の場合は、決してその価値を奪っているのでもどちらかが提供しているのでもなく、交換というよりは反応し合っている、というような関係のような気がする。あるいは、本当に交換してしまうと、それがたまたま自分に適合するものだったならば良いが、臓器移植の場合のように、相当慎重に行なわなければ、いずれ拒否反応を生じてしまうことが多いのではないだろうか。
こんなことをぐだぐだと、保育園に送り届けた後、吉祥寺駅に向かう道中、自転車をこぎながら考えている日々だった。娘を乗っけて毎日眺めた玉川上水の景色の記憶も多分なくならない。娘は忘れるだろうけどね(笑)。