僕たちが受け取る情報量は近年爆発的に増加したと言われている。それは主にインターネットが原因で、僕たちはその情報の洪水に翻弄されているという。

たしかにそれは事実だろう。しかし、もともと世界は個人が処理しきれない情報量を保有していて、その意味では情報の洪水という現象は今も昔も変わらない。変わったのは情報の質だ。

それは「質が良い、悪い」という意味ではない。言語化、データ化、あるいはもっと抽象的に言うならば、「明白にわかりやすい(それが、事実かどうか、科学的であるかは問わない)」形での情報が大量に作り出されて、僕たちに送りつけられるようになった、ということだ。

そもそも言語外にも大量の情報が存在していて、例えば「月が綺麗ですね」と言った場合、その文字情報だけでは単に月が綺麗だ、ということだけなのだが、そこに発言した人やそれを聞く人の表情、声色、そしてシチュエーションなどの膨大な情報がそれには付随している。

もともと僕たちはそのようにして大量の情報を処理して生きていて、処理している情報量は今も昔も変わらない。ただ、言語化、データ化された情報にだけ偏っている極端な偏食のような状態になっている、という方が正確なのではないだろうか。

ことわっておくと、偏食だから悪いということは決してない。それで健康面に問題のない人はそれでいいだろうし、中には体調を崩す人もいるだろうし、食文化として個人的には嫌だ、という人もいるだろうが、偏食であることイコールダメ、なんてことは全くない。

ただ、個人が処理できる情報量は限度があるので、何かが増えれば何かが削られる。例えばさっきの例ならば、「月が綺麗ですね」というような文字情報だけが増えたら、それに付随しているたくさんの情報は欠落してしまうのかもしれない。

一方、世の中には、曖昧な情報を処理することが苦手で、明快な情報ならばそれが多少多くてもこなせるタイプの人もいる。例えば自閉症スペクトラムの人などだ。全体に10%程度いると言われるこのタイプの人たちは、もしかするとこの時代には適応しやすい面もあるのかもしれず、そうした社会や環境の変化に人間が適応して生き残るために、様々な遺伝情報が残されている、ということを実感できる時代にいるのかもしれない、なんて想像をした。