「絶対音感」を持っている人が、ある音楽を聴いたときに、それが西洋の12音階からズレているからという「だけ」の理由で「気持ち悪い」と言うときには、世界全体ではむしろ多数派であるそれ以外の音楽に対して単に無理解である、というだけになってしまう可能性がある。もちろん、あるルールに則っているはずの場合に、ワザとではなくて無自覚に、あるいは単に無頓着ではずれてしまっている=間違っている、というのが気になる、ということもあるので、それは気持ち悪くても仕方がないのかもしれない。しかし、そのルールは全てには当てはまらない。僕の知ってる絶対音感を持っている人で優れた音楽家の人は、そういったことをわかった上で様々な音楽を理解しているけれど、中にはその絶対音感ということと、音楽のルールやカルチャーの違いがあるということが、キチンと整理されていない人もいる。

    こういうのは普段のコミュニケーションでもあって、「あるルールの中でいかにあなたがはっきりとした基準を持っていて、あなたにとって正しくても、それで全ては成り立たないんだよ」ということがある。コミュニケーションは言語情報と論理学的な論理だけでは成り立たない。

  世界の最小単位が個人だとすると、世界のルールは70億とおりあるわけだから、それぞれのルールを考慮しなければならない。ただし、「考慮する」というだけで、言い換えるなら、そうした事実・現実を直視するだけで、どれが正しい/悪いというわけではない。

 今、一般的に僕らが思う「論理的であること」ではない論理にも、それなりの筋が通っているという場合もある。太古の神話をただのウソ話と言ってしまうのは、その読み方が間違っている、ということもある。

ちょっと脇にそれるけど、世の中的には高学歴な部類の僕が言うのもなんだが、高学歴・高偏差値、高文化的な人とばかり話してる人、あるいはそういうところでばかり教えてきた学校の先生や教授なんかに、自分の話がちょっと通じないと「嘆かわしい」とか「これもこの国の病」とか言っちゃう人が多すぎるなあ、と思うことがある。なんと言うか、彼らはもう一歩、踏み込めていない。結局は自分の論理だけでなにかを押し進めようとしているのだから、それは、違う論理と文化を持っている人には不快でしかない。不快感しか与えないなら「交渉」「説得」「歩み寄り」「共感を得る」ことは不可能だ。

 勘違いしがちだが、共感と同感は違う。同感はまったく同じじゃなければならないが、共感はお互いに違いがあってもわかりあえる、ということだ。共感を求めているつもりで同感を要求していることが結構多い。それでは広がるはずもない。