あまりにも「わかりあおう」「わかりあえるはず」「わかってもらいたい」「なんでわかってもらえないのか」ということが先に来すぎている。わかりあうことよりも「みなが尊厳をもって生きられる」ことが大事で、極論すれば、わかりあえなかったとしても、お互いが尊厳をもって生きられるならばかまわないのではないか。
僕は以前、フェイスブックのコメントに「キチンと絶望した方が良い」みたいなことを書いたことがある。そんなことを思い出したのは、実は先日、尿管結石というとんでもない激痛をともなう病を体験したこともきっかけなのだが(笑)それに関連して「青い芝の会」の横田弘氏のことばを思い出した

彼は障害者運動を牽引した人物のひとりだが「我らは愛と正義を否定する」というテーゼを打ち出したのだ。詳しくはぜひ下記のリンクを読んでほしい。

文学に見る障害者像 「青い芝の会」と絶望の哲学 ―横田弘詩集『まぼろしを』―
賛否はあるのだけれど、彼の絶望と、それでもなお光を見いだそうとする姿と言葉を前にすると、右だ左だと言いながらかんたんに「わかりあえない」と自分の言葉も持たずに騒いでいるのなんてほんとくだらないと思う。自分以外の他人の尊厳を奪ってはいけないし、また、自分の尊厳がいつ奪われるかわからないような世の中は嫌だし、自分だけが尊厳を奪われない、というような特権があるように思うのもおかしい。とにかく、これは、わかりあうこと以前に重要なことなのだ。そしてそれは、誰かの愛や正義よりも先立つように思う。