T.V.O.D #22「反東京オリンピック/東京イズバーニング」」#20「太陽はあなたの敵」というこちらの記事を読んで、とても面白かったのだけど、論旨とは違うところでいろいろ考えた。

「事実を事実として受け入れる」ことを、この30年間で何度か突きつけられたとき(例えばオウム事件や阪神淡路大震災、東日本大震災、原発事故など)に、その事実を「単に事実として」受け入れることができず、そこに単純な二分法的な価値を、何かの立場にそって無理矢理付加してしまうことや、それまでどおりの黙殺でなんとかしようとしたことや、ファンタジーやフェイクではぐらかしたことや、「意味なんてないさ」と言っちゃっただけで終わったというところに80年代から克服できてない問題があるように僕は思う。事実を事実として受け入れることがなければ、必ずそこには歪みが生じる。

また、ここの#20で書かれているような「すべてを相対化して、あらゆるものを冷笑するためには、究極的には自分の自意識そのものを消去しなきゃいけなくなる」というのはむしろ前時代的な相対主義の考え方で、今ならば「いかに相対化しようがあなたはあなた、わたしはわたしとしてここに存在する」ということを単に「事実」としてそれぞれが受け入れれば良い、と考えるべきだと僕は思う。それが未だにできないのは、社会や他者を基準にし続けることによって自我が統合されず、終わりのない自意識の自己犠牲を繰り返さなければならなくなっていて、そのために「自意識を消去」しなければならなくなってしまうからなのではないだろうか。「冷笑系的な、自分の自意識の見苦しい温存・自己弁護」というけれど、自意識は見苦しかろうがなんだろうが温存して自己弁護して良いのだ。ただ、これが「見苦しく」感じるのは、それが他者の尊厳性を保つ姿勢がなかったり、その自意識が本来の自意識ではなく、実はすべて他者や社会の要請に応えようとして生じた歪んだ自意識かもしれないからじゃないだろうか。僕らが次に表現すべきことのひとつは、そうした歪みを乗り越えた自意識を表明することかもしれない。「あなた」は「いるだけで」いいのだ。