講演会やトークイベントが続いたので、それに関して思ったことをつらつらと書いてみる。講演の内容については書きません。2時間分あるので。
呼んでいただいた主催者の方に共通するテーマは発達障害のことだったのだが、僕は発達障害の専門家でも長年支援をしてきた人間でもない。昨年本田秀夫さんとの共著で出版した『なぜアーティストはいきづらいのか?』という本がきっかけでそのような主旨をもつ集まりに呼んでもらっているのだが、僕は本来ならば畑違いの人間だ。それでも僕が呼ばれるのには意味があるのだろう。いくつか考えられることはあるけれど、それは僕が境界線上を行ったり来たりするような人間=マージナルマンだからじゃないかと勝手に思うことにした。マージナルマンとか言うとなんだかかっこいいふうに聴こえるけれど、要はどこかに定まった居場所もなく、ふらふらしているような人間である。ただ、そういう人間にしかできない役割というのもある。たとえば集団Aと集団Bがあるとして、それらをまたがってAとBの情報を共有し合うきっかけを作れるかもしれない、とか、そんな役割だ。
なんでもそうなんだけど、ある傾向の考え方を持った集団や、当事者の集まりというのは、強い力を持つ反面、より意見や視点が偏っていく、ということもある。最近のSNSの状況が「エコーチェンバー」とか言われるのがそれだけど、そうすると、本来ならばもっと広がって欲しい思想がそうならない、という残念な事態に陥ってしまったり、より先鋭化して孤立してしまったりする。
また、なんらかの当事者は、いろんなつらいことや大変なことがあったときに、どうしても自分のせいにしてしまいすぎる傾向があるように思う。もちろん、明白なミスが自分にあった場合は仕方がない。それは反省するしかないだろうが、いくら注意していても人間誰しも風邪はひくように、事前に知識があろうがなかろうがどうしようもないということはあるのだ。そうしたことで生じた苦しみを全て自分もしくは関係者が背負うのは無理がある。というかおかしい。だって、それはその人のせいじゃないからだ。社会というものがあってそれに正当性があるというのなら、「そういう場合に助けてくれるような社会」であればこそだろう。社会の側から一方的に「お前が悪い」と言われる筋合いはない。その「社会」とは、誰かがなんらか属している集団も含まれる。どういうわけだか「社会」や「集団」は個人に責任転嫁してくることが多い。とにかく、ほとんどのことはその人のせいではない。ただなんらか現状と折り合いをつける必要があるというだけで、それはその人のせいでそうなっているわけではない。そういうことは、どこかに居場所がない人間や部外者の方が見える場合もあるように思う。でも見えたからと言って無頓着に何か言うと、「おまえになにがわかる!」となるのだけど。そうなってなかったかは気になるところだ…。そこでやはり思うのは「わかりあえるかどうかよりも、まずお互いの尊厳を大切にすることから考える」ということなんじゃないかということなのだ。
あんまりまとまってないけど、終わってからそういうことを考えた。