ジャズ・ミュージシャンから「文化が衰退する」という言葉が発せられたので、それについて思うことを書いてみる。
文化が衰退する原因はいろいろあるだろうが、ひとつは「引き継ぐべきことが引く継がれなかったこと」、もうひとつは「最早劣化していて捨て去るべき、乗り越えるべき固定観念に固執すること」で、そのふたつが合わさると、そのような事態に繋がってしまうのではないだろうか。
その「引き継ぐべきこと」と「捨て去る、あるいは乗り越えて行くべき固定観念」の判別をすることは、ときに難しいことかもしれない。ただ、学び続けていれば必ずわかること、というものも存在する。それには、「体罰や暴力は無意味」ということも含まれる。
体罰や暴力が、現代の科学とこれまでの膨大な研究の積み重ねによって、それがいかに無意味であるか、ということは、ちょっと調べてみればわかることなので、ここではひとまず日本行動分析学会の声明のリンクを貼るくらいにしておく。http://www.j-aba.jp/data/seimei.pdf
ここで問題にしたいのは、時代が進み、学べばわかることを学ばずに、固定観念に固執しているその姿勢が、文化を衰退させているということだ。ジャズに限らず、本来大衆音楽であった文化が成熟し、ある種の権威を持つようになってくると、それに関係する人たちもいつのまにか形だけ成熟し、権威をまとうようになってしまうが、それが一番文化を衰退させる原因になっていることに気づかない。
簡単に乗り越えられる問題ではないかもしれないが、暴力ということをとってみれば、医療や介護、精神医療の現場の方々は、日々コントロールの難しい事態(平静を失った患者や介護が必要な人が暴れたり、時に暴力を行使されたりすること)と向かい合い、それでも暴力という手段を行使することなくその都度を知恵を働かせていらっしゃる。ときに、暴力的手段にうったえてしまって事件となってしまうことがあったり、従事する方々の待遇や環境、評価が低いこと等もあって現実的に困難な状況もあるが、「それでも」やはり暴力的手段に頼ることなく、暴力を肯定することなく、チャレンジし続けている。それは、繰り返しになるが「暴力は無意味」だからだ。そしてそれに気づいた以上、なんとかしようというのが「今の」僕たちが考えるべきことなのだ。
そして、「暴力はだめだ。が、しかし~」と逆説の接続詞をつけることで視線をそらしてはいけない。「戦争はだめだ、が、しかし~」「人種差別はだめだ。が、しかし~」でも同じだ。はじめから「現実的には」という言い訳を持って考えることをやめてしまってはいけない。現実的にどう対処するかを考えて行くことは当然のことだ。しかし、「が、しかし~」ではなく「暴力はだめだ。じゃあ、どうすればいいのか?」と問うことからはじめなければ、それはよほど気をつけないとただの現状肯定や、先に言った、固定観念に固執しているだけになってしまうのではないだろうか。そして、それこそが文化を衰退させるものだと思う。