娘が小学校1年生になって半年が経つのだが、彼女自身は学校というものにあまり納得がいっていないようだ。なぜ長時間退屈なのにじっと座っていなければならないのか? なぜ授業と授業の間の休み時間が5分と短いのか、そんなんじゃ水飲みの順番待ってたら終わってしまうじゃないか、どうしてお昼休みは20分と短いのか、全然遊べないじゃないか、どうしてカチューシャを使ってはいけないのか? どうして校長先生は命令口調で指示をするのか? どうして・・・、とまあ、こんな具合である。

    僕としても、娘の疑問に明快かつ納得させられるような回答を持っていないし、大筋で娘の言い分には同意してしまう。じゃあ、どうしようかと考え中なのだが、それと同時に、ああ、自分も30数年前には同じように感じたなあ、ということを思い出した。ということはつまり、30年間変わっていないわけだ。そして、自分もそれを問題と感じていたのに忘れてしまっていて、放置し続けていた、ということだ。

   人は生きていく上で「忘れられる」ということは時に必要なことではある。なんでもかんでも覚えていては正直キツイ。しかし、単に喉元過ぎればなんとやら、という具合に、自分が当事者でなくなったとたんに「まあそんなもんでしょ」とか「まあ、それはそれでいろんな意見があるし」とか「現実的に考えて」とか、さらには「まあ、それも良い思い出」なんて美化してしまってはならないこともある。そうやって、誰かや何かが犠牲になってきた、犠牲にしてきたことを放置し続けて、その歪みが積もり、あるとき大変なことになっていた、ということは、これまでにも、つい最近にもあったことだ。だいたい、違和感というのは、放置しておくと実は大病につながっていた、なんてのは良くある話だ。

   だから、とりあえず自分にできる範囲で良いから、違和感があるならそれを表明していくべきなんだろうと思う。すぐに変えられなくても、いきなり大きな活動をしなくても良いから、まずは自分の言葉で違和感を表明することなんだろう。もちろん、自分の言葉で表明する事が様々な事情で難しい場合もある。それでも、例えば投票なんていうのは、ただ誰かの名前や党名を記入した紙を箱に投じるだけなんだから、誰かに見られるわけでもない。本当にすぐにでもできる違和感の表明の方法のひとつなんだと思う。とくに相手が国ならば、僕らが変な忖度をする必要はない。堂々と綺麗ごとを言えば良いのだ。