忙しいという自覚がなく忙しくしているときがある。
僕は忙しい状態が嫌いなので、できるだけ忙しくしないように心がけているつもりなのだが、「なんか忙しいな」と思っているときに、他人に言わせると「おまえ、すごく忙しいぞ」という状態になっている、ということがたまにある。なんだか変な感覚なのだが、状況的に忙しいということはわかっていても、その辺の痛覚が欠落しているときがあって、昔ある人から「忙しいはずなのにそう見えない。それはキャラなの?」と言われて「そうなんすかねえ?」と曖昧な返答をしたおぼえがある。
つまり何を言いたいかというと、今、僕は忙しいようなのである。
ところが忙しい時に限ってこういう文章を書いてしまったりする。
そもそも「忙」という字はどんな由来なのだろうか。よく「心を亡くす」という意味だとも言うが、本当にそうなのか。
気になる。
気になると、実はじっとしていたくない質である。
気になった時にすぐに調べられるのが現代社会の素晴らしいところだ。これが一昔前なら、そこに辞書がなければ家に帰るなり図書館に行くなり、本屋に駆け込んで立ち読みするなりして調べなければならなかったのだが、今やスマートフォンという強い見方がいる。
さて、気になる「忙」という文字の由来だ。立心偏の部分は「心臓」の象形で、右側の「亡」の文字は「死体に何か物をそえている」象形だそうである。「心をなくす」どころではない。人が死んでいるではないか。これはただ事ではない。
そのように「人がなくなる、ない」ということから「落ち着いた心がない」となり、「いそがしい」という意味になっていったようなのだが、「いそがしい」ということが「人が死ぬ」ということにまで繋がっていたとは。考えてみたら、多くの民が地獄のような過重労働を強いられていた時代の方が長かったわけで、心どころか命を亡くすことは発想の飛躍でもなんでもなく現実的なことだったのだろう。そしてそれは現代にも名残がある。やはり過度に忙しくしてはいけない。休もう、逃げよう。
ところで「落ち着いた心がない」ということと「落ち着きがない」ということはちょっと違うなあとも思ったりする。「落ち着いた心」を「心が安らいだ状態」もしくは「心が自分にとって望ましい状態」というようなことだとすると、落ち着きがなくてもそういう状態でいられることはあるように思う。というか僕はそうなのだ。自分が気になることややりたいことをいろいろやっていると気持ちが落ち着くことがある、反対にそれを止められると心が落ち着かない。別に仕事のはなしに限らなくて、僕自身の話で言うと、僕は歩いているとしょっちゅういろんなもの(虫とか、へんな落とし物とか)を見つけるのだけど、それはいろいろと視覚的に飛び込んでくるものがけっこう気になっていて、それを情報として処理しなければ気が済まないという性質があるからなので、それを意識的にやめるとなると、たぶん心が落ち着かない。幸いなことにそれで損をしたことはあまりないレベルで留まっているので「障害」にはなっていないのだが、何をもって「心をなくす」のかも、人それぞれ、ということなのだろう。なんであれ、誰かに強制されたり、自分自身に対して義務として強制することで忙しくすると、心の落ち着きが崩れてしまうような気がする。とりあえず、死にたくはないので、基本的に忙しくしてはいけない。休もう。
ていうかこんなの書いてる場合じゃない(笑)