これは個人的にいろいろと考えるきっかけがあって、それについて思ったことをつらつらと書いただけなので、ほとんどの人には「何について書いているんだ?」と思われそうな内容なのだが、自分のメモ代わりに書いておこうと思う。
まず、そのきっかけが元で「フレーム問題」について思い出したのだ。フレーム問題とは、人工知能が抱える問題の一つで、すごく簡単に言うと、あらゆる可能性を想定してしまうと判断ができなくなって思考停止に陥ってしまったり、判断が遅れてしまうというもの。人間がこの問題をどのようにしてクリアしているのか、あるいはクリアしていることにしているだけなのかは、いまだわかっていないらしいが、人間にしても人工知能よりはなんとかうまいことやっている、というだけで、同じように迷う場合は結構ある。いったいどこまで考えれば良いのか?ちょうど良いというのはどこなのか?というのを判断するのはなかなかに難しい。
例えば、社会問題に対する意識や行動というのもこれに似たようなところがある。世界には、たくさんの解決すべき問題がある。自分が暮らすところから地球の裏側に至るまで、数多くの悲しく残酷な現実が存在している。そういうことに気づいたずっとずっと若い時、それに対して何もできていない自分に対して疑問を感じたり、過酷な状況で生きている人びとに比べて恵まれた境遇に置かれている自分の怠惰さを反省してみたりもしたことがある。また、世界というのは、なにも自分の外部だけでなく、内側にも広がっているもので(夏目漱石は「日本より頭の中が広い」と言った)、自分の内側に対しても同じように感じたりする。今はそれほどにはそんなふうに考えなくなったのだが、それはごまかすことに慣れたということもあるが、すべてを処理しようとすると、逆に思考停止になったり、自分が壊れてしまったり、すべてが中途半端になってしまったりするので、フレームを設けて、そこからはみ出すものは思考や行動からひとまず除外しているということもある。
ただ、フレーム内の自分に見える世界の「解像度」を高めていくことはできるだろうし、同時にそのフレームは徐々に大きくしていけるように思う。
解像度とは、画像の密度のことだ。デジタルで画像を表す最小の要素は「画素」で、それひとつひとつは正方形や長方形の「かくかくした」ものだ。そして解像度はその密度になるわけだが、ある枠内で、画素が多くて密度が高ければ画像は精密に滑らかになる。
それが自分の外であれ内であれ、世界を眺めてみたときに、最初のうちはその画素数も多くなく、解像度も低いから、よくわからなかったり、その境界線も大雑把だから、それによる不具合もいろいろ生じる。それがだんだんと画素が多くなり、解像度も高くなれば、世界が見えてきて、「ここからここまで」という線の引き方もより緻密に明確になってくる、ような気がする。
しかし、画素数と解像度は「枠の広さや場所」とも関係してくる。枠が広すぎては、よほどの画素数がなければならない。全く頓珍漢な場所に枠を作られてしまえば、そもそも画像は映せない。だから、よく世界が見えるようにするために、そして明確な線をひくためには、それ相応のフレームの大きさや場所というものが大事になってくる。
ところが世の中、とかく「枠を広げろ」と言う。もしくは窮屈な枠をはめてこようとする。そして「ここの枠にしなさい」と言う。いずれの場合も不具合が起きる。どんなに画素数を増やしても、つまりいろんなことを学んでも、それに見合わない枠を設定されたら、いつまでたっても画像はぼやけたままなのだ。
ここで注意したいと思うのは、その枠を広げろとか狭くしろとか言ってくるのは、たいていの場合自分以外のなにかだということだ。自分の画素数や解像度を理解してくれていれば良いのだが、そうでもないのにそんなふうに言ってくるのだから、それにあわせたら、おかしなことになっても仕方がない。仕方がないのに「おまえが悪い」と言われたらたまったものではない。
つまり、自分で「画素数=知識や情報やパターン」を増やしていき、同時に、それに見合った枠の広さを自分で決めていくのが一番良いということかもしれない。そうしたら、見えている世界と何らかの境界線の精度はいずれ高くなってくるのだと思う。