最近いろんなところで「思い切った行為」「勇気ある行動」があって、僕にとってどれも賞賛したいし、応援したいものだった。

しかし、彼ら彼女らに対してではなくて、ほんの少しだけ気になることがある。

ひとつは「勇気を出せ」と他人が言うのはちょっと気をつけたい、ということ、もうひとつは、なにか思い切った行動がなされた時に、その行為とは別に人格とか態度とか、そういうことを問題にするようになるということだ。

アメリカの公民権運動でひとつの大きなターニング・ポイントをつくるきっかけとなった人にローザ・パークスという女性がいる。彼女はバスで白人に席を譲れと言われたときに(ほんとはもっと詳細な背景の説明が必要なんだがここでは省略)立たなかった。それがバス・ボイコット運動へと発展していくことになる。彼女の行為はとても「勇気のある」行為だった。

しかし彼女は「バスでの人種差別撤廃をめざすテストケースの原告になるかもしれないというようなことは微塵も考えていなかった。もしそのようなことを考えていたら、バスを降りていたでしょう」と語っている。そして「屈服させられることに我慢できなかったから席を立たなかった」のだ。もちろん彼女にも「大きな問題意識」も多少はあっただろうが、これは、あくまでも彼女個人の尊厳を守るための行為だったのだ。もし彼女に「この現状を変えるために勇気を出して席を立つな」と要望していたら、彼女は立てなかった。「勇気を出せ」というような強要を、他人が軽々しくすべきではないのだ。同じようなものに「命(人生)を賭けろ」というのもあるが、これも大体安全圏から投げる言葉で、無責任な場合が多いから注意が必要だ。

あと、体罰の話題なんかでも同じ構図になりやすいが、自分の経験を否定されたくないがために肯定する、逆に言うと、自分の人生を肯定したいから、否定する、ということもある。自分が「勇気ある行動」ができなかったから「勇気ある行動」をした人をなんとか否定しようとする場合がある。自分がそうなっていないかの自問は必要だ。そして、同時に「勇気ある行動」を要求することは、ひとつ捻れて、そうした行動の否定に変容することがあるということだろう。自分のやれる範囲で良い、しかし他人の偉業は素直に褒める、そういうシンプルなことができなくなってしまう。

もうひとつ。ローザ・パークス以前にも、実は同じ行動を起こした女性がいた。しかし、全米黒人地位向上協会は彼女を立てて争うことはしなかった。それは、彼女が未婚の母で、そのことをあげつらわれる可能性があったからだ。それと比べるとローザ・パークスは「前科がなくて、真面目に働いていて、結婚もしている」原告としては「理想的」な人だった。だから協会は彼女を選んで戦った。

これは戦略としては正しかったのだろう。しかし、問題の本質とその人の有り様が無関係な場合でも、それを結びつけて、批判の対象にしてしまうことが現実的には多々ある、ということで、そのこと自体は決して良いことではないのだ。