エリック・ホッファーというアメリカの哲学者がいる。彼の人生は一般的な学者のそれとはまったく違って、とても数奇で面白いので、興味ある人はぜひ検索してみてほしい。
彼は様々な「大衆運動」(キリスト教、愛国主義、ナチス、共産主義等・・)に人がなぜ身を投じるのか、ということについて分析をしたのだが、そこでの主張が現代において考えさせられることが多い。彼は、大衆運動に参加する人々は「自分が自分であることに耐え切れなくなり、個人としての自分から逃走しようとする人である」と指摘したのだ。以下は彼の著書『大衆運動』からの引用である。
~自由は、欲求不満を軽減する反面、少なくともそれと同程度に欲求不満をいっそう重くする。選択の自由は、失敗した場合の非難をことごとく個人に荷わせる。(中略)個人の責任から逃れるために、つまり熱烈な若いナチス党員の言葉でいえば、「自由から自由になるために」大衆運動に参加するのである。(中略)実は彼らは、責任から自由になるため、ナチ運動に参加したのではなかったろうか。
そして、集団に融合された個人は、自分も他人も「個の人間」としては考えなくなり「自分は○○人だ」「自分は○○教徒だ」と、所属集団を主張するようになるという。
他にも多くの興味深い指摘があるのだが、「個人の責任から逃れるため」という視点に注目したい。現代の僕たちも、やたらと「個人の責任」を重くさせられているように思うからだ。
少し話は飛ぶが、現代の様々な「労働法」が作られた背景にも共通する点がある。フランス革命や産業革命後の古典的な近代市民法は「自由平等」を原則としている。しかしながら当初は世の中の現実を無視して、「労働者と使用者が対等平等な状態にいる」とみなしていたため、「個別的な契約の自由」つまり「個の責任」ばかりが優先され、結果として労働者の保護が十分にできず、劣悪な条件下で働くことになってしまった。それを修正したのが現代の労働法なのである。
このように「個の自由」「個の尊重」と「個の責任」の関係には、実はとても注意が必要なのだ。多様性や個の尊重を語る時、かなりの頻度で「個の責任」あるいは「自己責任」がセットにされる。しかし、それには気をつけなければならない。
また、ホッファーの次の言葉を紹介したい。
「世界で生じている問題の根源は自己愛にではなく、自己嫌悪にある」。
「驚くべきことに、われわれは自分を愛するように隣人を愛する。自分自身にすることを他人に対して行う。われわれは自分自身を憎むとき、他人も憎む。自分に寛大なとき、他人にも寛大になる。自分を許すとき、他人も許す。自分を犠牲にする覚悟があるとき、他人を犠牲にしがちである」。
個人的にはすべて腑に落ちるのだが、とりわけ最後の一文が効いている。そう、「自分を犠牲にする覚悟があるとき、他人を犠牲にしがち」なのだ。そして、個の責任を負いきれなくなったとき、人は個を喪失し集団に融合する。そして、集団に融合させようとする。それが暴走したときどうなるかは歴史を見れば明らかだ。
そしてホッファーはこのようにも言っている。
「プロパガンダが人をだますことはない。人が自分をだますのを助けるだけである」