年末年始に読んだ記事の中に、教育無償化に関するものがいくつかあって、その中に「エビデンスを重視せよ」というものがあった。僕は、その基本姿勢には賛成だ。なんとなくの経験則、しかも個人的かつ非常に狭い範囲で得た感覚や思い込みで語られることの多い教育関連の問題に対しての違和感は常にあって、そこには科学的な姿勢が欠けていると感じるからだ。

しかし、そこには、こんな記述もあった。

「保育の質の違いが子どもの認知能力(学力と知能指数)と非認知能力(忍耐力、自制心、社会性など)にどのような影響を与えるのか、追跡調査しエビデンスを積み重ねていく」。

「忍耐力」「自制心」「社会性」がエビデンスを求めるものの第一に来ている。それらは評価すべきこととして重要だ。しかし、「ほかにもあるだろう」とも思うのだ。

他ではいったいどのように「教育を評価」しようとしているのか気になって見てみたが、およそ「学習面でどのくらい効果があったか」「就職に役に立ったか」「就職した後、学習した知識がどのくらい役に立ったのか」などである。表現の違いなどは多少あるにせよ「教育の効果」を調べる際の項目は、そういうキャリア教育的なことが中心になっている。

それらひとつひとつは間違いではないし大切なことだろう。でも、やはりこうしたエビデンス偏重にも批判はあって、「そのように明確に数値として現れないところの評価はどうするのか」もしくは「誰がその評価項目を決めるのか自体が問題」という意見も見受けられた。

また、イギリスでは教育にエビデンスを積極的に取り入れたけれど、必ずしもうまくいってはいないらしい。イギリスでは政府のやりたい政策がまずあって、それを支持するエビデンスを提供するようになったり、短期的に評価されやすいものが増えてるという指摘がなされているらしい。結局、数値化できるものは、良くも悪くも「狙いやすい」。つまり「数字合わせ」の技術が向上する。そうなると本末転倒になってしまうことがある。

あと、たとえば、こんなこともあるかもしれない。ある教育法や環境を採用したとして、学力に伸びは見られなかったとしても、もしかしたらその子どもたちはみな「自己肯定感」が向上していたかもしれない。それは素晴らしい結果のはずなのだが、その評価項目がなければその教育は「効果が見られなかった」と言われてしまうかもしれない。「自己肯定感」でなくても別のものでもかまわないが、教育の効果のエビデンスを求めると言っても、教育に何を求めるのか、でそれは随分と変わってしまう。全体として「学力」と「社会に役立つ」ということばかりが評価項目に上がっているのは、どうにも違和感がある。

そして教育の効果は、いったい何歳でわかるのか。人生は死ぬまで続く。仮に60歳まで世に言う「成功者」であっても、その後も適応できるとは限らないし、それまで社会的な要請に応えられたからと言って幸せになるとは限らない。更には2世代3世代と股がった場合はどうか。ある世代がなんらかの教育で育ち、もしかしたら短期的にはなんらかの「社会的成果」を生んだとしても、次の世代に大きな負の遺産を継がせてしまうようなことになってしまえば、50~100年単位で見ると、社会的には大きな損失を産んでしまうことにもなりかねない。その最たる例が戦前のドイツや日本だろう。つまり、評価する基準をどこにおくのか、ということと、時間の長さをどのくらいに設定するのかで、答えは随分と変わってしまうということだ。教育に限ったことではないが、変化の規模が大きく、スピードが速い現代では、ますます視点が短期的、限定的になっているような気がする。

僕は、現代日本の教育行政のあまりにも非科学的な姿勢には断固反対しているが、「誰かの利益」のためのエビデンスづくりになるような教育にも反対だ。そのあたりは注意して観ていきたいと思う。