まず、社会にもっと理解が広がるべきキーワードとして「相対的貧困」があげられる。相対的貧困とは、人が社会の中で社会の構成員として生きていくためには、ただ飢えないだけの食物があるとか、凍死しないための服を着ているというだけではなく、社会で一般的とされている生活様式とまったく同じとまではいかなくても、ある程度は接近しなくてはいけないというような考え方である。例えばひとりの若者が、就職や結婚、子どもを持つことを希望するとして、就職活動にはスーツが必要だろうし、結婚するにはパートナーと出会い、交流するためのお金が必要だろう。そのような普通の活動ができない状態は貧困になる。つまり、貧困かどうかは、社会の中に相対的に存在している「通常」レベルからの距離で決まる。人を単なる生物としてではなく、社会人として捉える見方ともいえる。(参照:阿部彩氏:http://www.mammo.tv/interview/archives/no248.html)
貧困を考える場合にはこの視点がなければならない。この辺りには、貧困に対する固定されたイメージもあるので注意が必要だ。例えば鴻巣さんの印象深かった話。貧困状態とされる人がスマートフォンを持っている、それにお金を費やしていることが非難されることがあるが、貧困やそれに伴ういじめや孤立によって「人との繋がり」を切断された人びとにとってそれは、場合によっては衣食住よりも、「大切なもの」であり得る、ということだ。「社会の通常レベル」という基準とともに「それぞれにとって生きていく上で大切なもの」という、相対的な視点が「人が人らしく生きていけること」には重要なのだ。
また、土井高徳さんは「社会的分断から社会的包摂へ」「貧困問題の解決は格差是正」と主張し、そのためには「社会的養護・貧困世帯への支援強化」が必要だと提言した。具体的には、ミクロにおいては保育料・就学奨学金・奨学金の給付、学習支援などで、メゾにおいては、子ども・母親をめぐる社会的紐帯増大をはかり、学校での朝食給与や1校区1里親・1ホーム配置、マクロでは政府の再分配機能強化をはかり、ベーシックインカムと子ども・女性の貧困対策の強化を提言されていた。
この「ベーシックインカム」については個人的にもいろいろと思うところがある。賛否が様々あるが、僕は基本的に賛成の立場だ。その理由の一つに「スティグマからの解放」がある。スティグマとは「他者や社会集団によって個人に押し付けられた負の表象・烙印」のことだ。鴻巣さんが運営する「KAKECOMI」が「まかない」子ども食堂であると仰っているのにも同じところを感じたのだが、鴻巣さんが「まかない」という言葉をつけているのは、「誰も被援助者にしない」という思いがあるのだという。そして「被援助者の憂き目への想像力」が必要だとも言う。ここはとても大事だと思う。僕がベーシックインカムに賛成する理由のひとつはここにもある。「生活保護をもらう」ということがスティグマと化している中、全ての人に本来の権利を配分するには「皆が同じようにベーシックインカムをもらっている」ということでそのスティグマ化を避け、自己肯定感を守る必要があると思っている。ちょっと話がそれたけれど、「被援助者」ではなく、「まかない」として食事を得る、つまり何らかの行為の対価として、誰かのためになっているとして、自尊心・自己肯定感を育むことが重要なのだ。
鴻巣さんが面白い話をされていた。ある議員がKAKECOMIを視察した後、陰で「子ども食堂だってのにみんな明るくて元気でこぎれいで、、、(*多少表現が違ったかも)」みたいに「揶揄するように」言っていたのだそうだ。しかしそれを鴻巣さんは「むしろ嬉しかった」と言っていた。僕たちの視点はどちらにあるのだろう?
(多分もう1回くらい続く)