「土井ホーム」代表の土井高徳さんのお話にもたくさんの大切なことがあった。多くの事例と経験、そして確かな論理をもとに「安全感のある環境・確かな応答によって、子どものしなやかで強靭な力(ストレングス)や回復力(レジリエンシー)が働き始める」と主張された。そして、困難への対応の基本的視座は

◾️「安全感のある毎日の保証」(安全でなければ回復はない)

◾️「一貫性・継続性のある応答」(危機とは「切断」のことである。一貫性・継続的な対応が断裂した認知、感情、行動を修復)

◾️「相互性を活かした関係性の構築」

であるという。

また、困難を抱える子どもたちには、時間とともに成熟するのを待つ「時熟」、そして、行きつ戻りつ、いつでも帰って来れる「円環的支援」を提唱された。

このあたりはおそらく現代のカウンセリング理論などにも基づいているのだろうと僕は思ったので、その辺りと縁がない人にも、何らかの支援や、自分が生きていく上で何か参考になるかもしれないので、ちょっとだけ書いておく。

現代のカウンセリングにおいて大切な基本的な態度の基盤となっているもののひとつに、カール・ロジャースという人の考え方や技法がある。

ロジャースは、「人間は、共感的で深く信頼できる人間関係や生活環境と出遭うことができれば、ありのままの自然な傾向として『発展・成長・回復・健康』といった適応的な良い方向へと変容していく性質を本来的に持っている」とした。そして、そのような傾向を活かすために必要なカウンセラーの態度を下記のようにいくつかあげている。

◾️「自己一致」 ―自分がどのような人間であるのかという自己概念と自分の現実社会での経験(思考・感情・態度・行動)が一致していて、矛盾がない状態

◾️「傾聴」 自分の意見や価値観を挟んだりせずに、徹底的にしっかりと聴取する

◾️「共感的理解」 相手の立場にたって、問題となっている人間関係や社会環境においてどのような感情や情動を感じているのかを共感的に理解する

◾️「無条件の肯定的尊重・無条件の積極的受容」

詳細はここでは書ききれないので、興味のある人はこれらのキーワードで調べてみて欲しいが、とにかく「人間の尊厳」を大切にし、相手が「安心できる関係と場」を構築し、時が熟するのを待つように「傾聴」し、そこに自分の意見や価値観を挟まずに、無条件の肯定的尊重・無条件の積極的受容をすることで、人は自ら回復していける、というのだ。逆に言えば「安心できる場や関係がなく、自分の話を聴いてもらえることもなく、誰かの意見や価値観で指示的に指導され、(それがどんなものであれ)自分の価値観を受入れることのない批判的な態度で接される」のであれば、人間が持っている本来の回復力が発揮されることはないのである。

円環的に考える、というのもとても大切な視点だと思う。特に日本社会は幼少期から、小中高大学や専門学校、そして就職と、それぞれの発達のスピードや特性に関係なく、6・3・3・4(2)年の決まったタイミングで、右肩上がりの坂道に設置されたハードルを超えるように要求され、「行ってこい、戻ってくるなよ」と投げだされる。そして、それをそのタイミングでクリアできない者は落伍者・不適合者として扱われてしまう。

本来、人の成長は、直線の右肩上がりではない。それは様々な曲線を描くはずだ。それを無視した教育や支援は歪みを生じさせる。それぞれの曲線に沿って「時熟」するのを待ち、いつでも戻って来れるよう「円環的に」支援することは、とても大切なことだと思う。これは鴻巣さんが仰っていた「居場所」にも通じることだ。「居場所」は決してなんらかの条件を必要とせずに、「安心でいつでも戻って来れるさまざまな曲線の交わる場所」であり「人間の尊厳が大切にされた、それぞれの曲線に沿って存在できる場所」なのだろう。そうした場があることで、人は本来の回復力を発揮できる。

また、少し話はそれるのだけれど、「円環的に考える」というのは、ちょっと違う意味でも大切なことがある。同じくカウンセリングで「家族療法」というのがある。家族を「システム」としてとらえ、ひとりひとりがその家族というシステムの中にいると考え、たとえば、家族のひとりが「うつ病」などを生じた場合、患者だけを治療するのではなく、家族全体を治療対象としてとらえる。つまり「家族システム」のなんらかの問題点が、その中のひとりの問題として発現する、と考えるのだ。

ここで大切なのは、問題点が家族の特定のメンバーにある(直接的因果律)と考えないことで、あくまで家族どうしの関係のなかにある(円環的因果律)と考えるところだ。これは、いわゆる「悪者捜し」をしない、ということでもある。家族は、それぞれの「相互作用」のなかで生きている。だから、家族ひとりの変化は、家族システム全体に影響し、それは家族ひとりひとりに変化を起こす。そのように「誰かが悪い」のではなく、「システムに問題がある」と考えるわけだ。

このシンポジウムで鴻巣さんは「子ども食堂は頑張りすぎないほうがいい!」と仰っていた。これは、「誰かの問題」でもなければ、誰か個人の力でどうにかする問題ではない。システムの問題なのだ。そして、そのシステムとは国である。本来、国が、そして国を、どうにかすべきことなのだ。