WANIMAの『ともに』では、いずれにせよ「進め君らしく」と「自分らしさ」を大切にしようというメッセージが歌われているのだが、ここで重要なのは、タイトルが『ともに』であるという点だ。つまり、「いっしょに」進もう、ということである。
ところで「君らしく/僕らしく」という主張は、もともとソロアーティストから発せられることが多かったかもしれない。尾崎豊『僕が僕であるために』(83年)では「僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない」と歌い、槇原敬之は『どんなときも』(91年)で「どんなときも僕が僕らしくあるために」「好きなものは好きと言えるきもち抱きしめていたい」と歌った。しかしそこでは「馴れ合いのように暮らしても君を傷つけてばかり」(尾崎)であり「もしも他の誰かを知らずに傷つけても絶対にゆずれない」(槙原)ものであった。つまり「誰かとともに」ではないのである。(ちなみに槙原の「どんなときも」では「昔は良かったねといつも口にしながら生きていくのは本当に嫌だ」という過去否定/未来志向である)
その後「誰かとともに」というイメージはDragon Ash『GREATFUL DAYS』(2001年)で「悪そうな奴はだいたい友だち」という有名なフレーズとともに現れるようになり、そこでは父母友に感謝する言葉が歌われ「共同体や繋がり」に価値を見出すようになる。しかしそこでは特別に「君らしさや僕らしさ」を言うことはなかった。
そして先述の槇原敬之はSMAPに『世界に一つだけの花』(2006年)を書く。そこでは「僕らは世界に一つだけの花」「その花を咲かせることだけに一生懸命になればいい」と宣言される。これは槙原の91年から続く一貫した姿勢といえるかもしれないが、最も大きく異なる点は「SMAPというグループが歌った」ということだ。この歌の中では「どうして僕ら人間は比べたがる?一人一人違うのに一番になりたがる?」とも言っているのだが、このフレーズは本来の意図からは離れて「人と比べるな」は「贅沢を言うな」に、「一番になりたがるな」は「出しゃばるな」という意味に変質し、10年の時を経てこれを歌ったSMAPというグループのそれぞれのメンバーが咲かす花は、特定の条件を満たした場合にだけ咲くことが許されるという類いの個性だったことが事務所との騒動の中で露呈することになる。
SUCHMOSのヒット曲「STAY TUNE」(2016年)では自分と気の合うやつが「どこを探しても見つからない」と嘆く。ここには、彼等のグループとしての佇まいにも共通しているが「気の合う仲間」をつくるということが重要な前提になっていて(たとえば『MINT』でも「調子はどうだい兄弟 徘徊しないか」のように歌う)、それには「ブランド着てるやつ、頭だけ良いやつ、広くて浅いやつ」はダメ、など、DragonAshのころには提示されなかった細かい条件が提示され、それに該当する者は除外される。自分たちの個性は大事にする、けれどそれには仲間つくりと条件付きの連帯が前提ということである。
そうした「条件付き連帯」そして「条件付きの個性(多様性)礼賛」のもっとも顕著な例は欅坂46の『不協和音』(2017年)かもしれない。ここでは「不協和音を僕は恐れたりしない」「ひとはそれぞれバラバラだ」と強く主張される。しかし、それを歌う彼女たちは同一プロデューサーの元で同じ服を着てマスゲームのように歌い踊る。『サイレントマジョリティ』(2016年)で、彼女たちは批判するように「似たような服を着て似たような表情で」「大人に支配されるな」と歌うにも関わらず、そこには構造的に大きな矛盾を孕んでいる。
つまり、ここでの多様性礼賛は、やはりあくまでも条件付きに許された多様性が対象なのである。極論するならば、かつてオウム真理教に入信した人たちが「自分たちが特別なオンリーワンになること」を目指していたのに、いつのまにか同質なカルト集団になっていくのにも似ているかもしれない。
さて、こうした「ともに進もう」という流れは、どこに向かうのだろう。
“3. 「自分らしさ」と「条件付きの連帯・多様性礼賛」の音楽(尾崎豊から欅坂46まで)” への2件のフィードバック
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