「死ぬほど辛かったら逃げ回ればいい」イースタンユース吉野寿が示す“尊厳と自由“を読んで、それとは対照的だなと感じたのが、年末の紅白にも出場した女性アーティストのSHISHAMOと西野カナの楽曲で、それぞれが紅白で歌った曲の歌詞は、なんというか、ある意味今の時代を映しているのだろうが、どう解釈したら良いのかと複雑な気持ちになる。
SHISHAMOの『明日も』は「月火水木金働いて不安が占めて時々ダメになっても毎日頑張るしかなくて 「ダメだ もうダメだ 立ち上がれない」という そんな自分変えたくて今日も行って、 痛いけど走ったし苦しいけど走った けど報われるかなんて分からないけど とりあえずまだ折れてないから、ヒーローに自分を重ねて明日もがんばるぞ」という歌詞。いや、もう折れるぞそれ、という突っ込みを入れたくなる。
西野カナの『パッ!』は「毎日毎日朝起きて化粧して来る日も来る日も仕事して、家に帰って本当はやりたいこともあるのにメイクも落とさずベッドにダイブしてる毎日だけどたまにはパッとはじけたいわ、とりあえずこれからの自分に乾杯!」
、、、いや乾杯してる場合じゃないだろう。
「女性が輝く社会」と掛け声がかかる中、注目の女性アーティストが紅白という舞台で歌った歌詞がこんな感じなのは、なんと言ったら良いのだろう。
自覚してやっているかは別にして、現状を追認して生き抜いていかなければならない、生き抜いた方が良い、という姿勢は今よく見られる傾向のひとつだと思う。椎名林檎の東京五輪に対する「決まっちゃったんだからもう一致団結して~」みたいなのもそのひとつだろう。これは男性女性はあまり関係ないけれど、特に、社会からの抑圧と制限の度合いがより強い女性の方が、生きていくためにそうしたことに敏感にならざるを得ないのではないかと思う。また「現状追認=現実志向」と考えてしまうようなある種の誤解の元は、今の40代以上の世代から発しているもので、それが人口的に圧倒的に多数派であるという強力な圧でもって若年層を圧迫している、という構図も感じる。
他の若い女性アーティストだと、違う方向になるがDAOKOのあり方が気になるところだ。
本人の意図がそこにどのくらいあるのかはわからないが、若くして注目されて多くの大人たちのサポートをへてシーンに登場してきたところも含めて、現在の彼女は結果としてバブル期のユーミン化しはじめているようにも感じる。
バブル期のユーミンの歌詞は乱暴に言えば「中央フリーウェイ」を輝く未来を提供してくれそうな良い車に乗っている彼氏の隣で発展する都市の様子を眺めることができたり、「私をスキーに連れてって」くれたりする「ハイスペックの男を捕獲できる女性」というスタンスで、当時の日本ではある意味それが「賢い選択」だったのかもしれないが、DAOKOが岡村靖幸や米津玄師やBECKという「ハイスペック男」あるいは「すでに権力を掴んでいる男」とのコラボをやって(やらされて?)るのには、ちょっとそれと同じ構図を感じてしまう。
ただユーミンと違うのは、彼女の歌詞にはユーミンが「まるで滑走路みたいに夜空に続く」ように感じるような「明るい未来」はあまり感じないし、DAOKOの方は「全部嘘だけど愛してくれる?(『BANG!!』)」みたいに、それがFAKEだとわかっていてもそうしなければいけない、というところで、そこには大げさかもしれないけれど「哀しさ」もあるのかもしれない。どっちにしろ、抑圧から「逃げる」という選択肢を現実的にも思考的にも奪われた人は、現状追認を現実志向と変換して生きていかざるを得ないわけで、それは確実にいずれ何かが破綻すると思う。
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