RADWIMPSの新曲『HINOMARU』が話題になっている。単に炎上が目的で作られたのだとしたら、それに乗るのは避けたいのだけれども、音楽に関わる仕事をしている人間として、また、彼(ら)が若い人たちにも影響力があるミュージシャンでもあるので、今回のこの曲に関して僕なりに考えたことを書いておこうと思う。

まず、歌詞の内容以前に、RADWIMPSというか野田洋次郎が、良くも悪くもたまにこういうことをやらかす人だ、ということは、一応は踏まえておいた方が良いと思う。例えば以前は『五月の蝿』という曲の歌詞が、その内容の過激さゆえに話題となったこともある。どういう意図があって、このような歌詞を書いたのかは定かではないが、とにかく、時々騒動のたねとなるような作品を書いてしまう人ではある。

そして、今回の『HINOMARU』。本人は「日本に生まれた人間として、いつかちゃんと歌にしたいと思っていました。(略)僕はだからこそ純粋に何の思想的な意味も、右も左もなく、この国のことを歌いたいと思いました。自分が生まれた国をちゃんと好きでいたいと思っています。好きと言える自分でいたいし、言える国であってほしい」と語っている。

これについても賛否様々な意見が上がっているのだが、僕が今回の件で思うのは主にこの1点。「作品として質が低い」。これに尽きる。

思想があろうがなかろうが、右だろうが左だろうが、「基本的には」本人が表現したければすれば良い。だからそこに関しては今回僕はあえて置いておく。しかし、彼がいう「古(いにしえ)からはためく旗」の古とは、この国の長い歴史の中の、明治以降のたかだか100年分くらいの、しかもかなり特殊な時期のことだけでを指しているのであって、どうしてもその底の浅さが目についてしまう。特にその中途半端に取り入れられた文語調の表現や、「僕らの燃ゆる御霊」という意味が通じにくい(僕らはすでに死んでいるのか?)安易な表現などをとってみても、練られて作られたものではないことがわかる。いや、もちろん勢いで意味不明な歌詞を書いても構わないのだ。そうした名曲はいくつもある。しかし、この曲が「ちゃんと歌いたい」という決意のもとに作られたのだとしたら、浅いとしか言いようがない。

それからもう一つ。昨年末の大晦日のダウンタウンの『絶対に笑ってはいけない』で、浜田雅功が肌を黒くメイクしてエディ・マーフィに扮したことが批判され、それに対しても様々な意見が出た。今回のことはこれにも似ている。これは、ダウンタウンの芸が、アメリカにおける黒人差別の長い歴史と「ミンストレルショー」などの、「黒塗り」にまつわる歴史に対する無知が根底にあり、もはやそれでは済まされない時代になっているのにも関わらず、時代錯誤に黒塗りをしてしまうという「芸の質の進歩のなさ」が問題なのだ。その反対に、渡辺直美はわざわざ黒く塗らなくてもビヨンセのモノマネで笑いをさらうではないか。つまり単にダウンタウンの芸の質が低い、というだけなのだ。それと同じで、もし自分の国が好きということを歌うにせよ、このようなステレオタイプな過去の軍歌のような表現でやっつけようとしたところが、この曲の「質が低い」ところなのだ。もっと現代にふさわしいやり方があるあるはずなのに、それを模索しなかったのは、表現者として単なる停滞である。まさに「なんの思想も」なかったのだろう。

◆関連 「明治期がむしろ特殊」ということに関して、昔こういう文も書いたことがあるので、参考に。『日本の神々とは?』 『山桜〜大和心とは何か』