今年75歳になった僕の母は、たしか1歳のときに父親(つまり僕の祖父)を戦争で失った。だから、母には父親の記憶がない。あるのはわずかに残された遺影と、誰かから話してきかされたエピソードだけだ。
母が70歳を過ぎたあるとき、僕の髪を見て、こんなことを話し始めた。
「あんたは、白髪が出ないねえ」
僕は40歳を過ぎてもほとんど白髪が生えていなかった。
「そうだね」と答えると
「死んだお父さんがそうだったかもしれないね」と言った。
僕の父も母も、40を過ぎた頃には白髪がけっこう出はじめていたので、もしかすると、死んだ祖父が白髪の出ない人だったのかもしれない、というわけだ。祖父は若くして亡くなったから、真相はわからない。栄養状態や、洗髪の習慣の違いなどもあるから、単純な比較もできないかもしれない。
しかし、70年という時を経ても、母の心の中には、埋めようのない喪失感があるのだろう。僕の髪を見て、記憶のない、そして、本当ならともに年齢を重ねるはずだった自分の父親のことを思っている。僕自身、娘が産まれ、一緒に暮らすようになって、自分が祖父の立場だったらと考えると、居たたまれない気持ちになる。
全てのことは、無数の人々がいろんな思いで積み重ねてきた蓄積によって成り立っている。そのことに対して、無神経であってはならないし、尊重しなければならない。
「父の日」をいろんな思いで迎えている人がいる。