最近は不登校に対する理解・受容も以前よりはいくらか進んできているので、昔よりも無理矢理学校に行けという圧力は減りつつあるのかもしれない。明日から学校というところも多いからだろうが、「逃げていいんだよ」というメッセージも多く見られる。僕は昔から「逃げること=離脱すること」を主張しているので、基本的には大賛成だ。ただし「基本的に」という言葉がつくということは、条件がある、ということでもある。

「逃げていいんだよ」と言いながら、実際には逃げ場の準備もなされていなければ、逃げ方の指南やサポートもないとなると、どうやって逃げれば良いのか?ということになってしまう。

もちろん、そもそも逃げるという発想がない人は逃げようともしないのだから、逃げて良い、という気づきをもたらすことは意義がある。だけれど、条件が整っていないから「逃げられない」場合もあるのに、そういう人に対して「逃げて良いんだよ」「なぜ逃げないの?」というのはちょっと酷だ。実際、今の学校がどうにも相性が悪かったとして、じゃあ、休もう、自由な校風のもっと相性の良いところに行こう、という選択肢を選べるのは、お金も時間もある人たちだけだったりもする。実際我が家もいろいろ検討してみたけれど、共働きで、自分たちの収入や、割ける時間、何らかの選択をした場合に親と子に、むしろ生じてしまう負担の大きさを考えると、ほとんど選択肢はないんだな、と思った。そしてこういうのは学校だけでなく、社会の至る所でみられることだ。

あと、僕の連載『アーティストのためのカウンセリング入門』の第6回「人はどれだけ環境に左右されずに意思決定できるのか?」でも書いたのだが、自分の本当の意思を貫くのはなかなかに難しい。具体的には難しいことがたくさんあるということは承知で、やはり環境がもっと変わって、もっと選択肢が増えてくれれば良いな、と思う。

あと、けっこう人は簡単に「愛があれば」「愛が大事」のようなことを基本に、福祉や教育を語りがちだ。もちろん、「愛」は尊い。でも、僕は、脳性麻痺者による障害者運動を進めた「青い芝の会」の横田弘氏の「われらは愛と正義を否定する われらは愛と正義の持つエゴイズムを鋭く告発し、それを否定することによって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且、行動する」を思い出すのだ。これについては以前も別の話題でとりあげたのだけど、愛という言葉でコーティングするのは、時にとても危険なことにもなりうるという面も意識しておきたいと思う。物事には全ていろんな見方がある。愛があろうがなかろうが、どうにかしなきゃいけないということもある。大きな愛があったかもしれないが、なんとかかんとか現実と向き合って積み重ねてきたものや、そうやって生きてきた人の努力はたぶん、「やっぱ愛があるからだよね」では片付かない。というか、多分僕だったらそう言われると微妙な気持ちになる。僕には自分の子どもに対する愛はもちろんある。愛が持つ力も信じている。しかし同時に、自分が持っている愛が「子ども自身が思っている子ども自身にとっての幸せ」を保証するわけではないとも思っている。相手が子どもであろうが誰だろうが、他人の理想的な状態を、自分の感情で左右できるとは思わないし、できると思ったらそれは逆におかしい、とも思う。

で、明日から娘も学校。社会との知恵比べが始まる。正直、そういう知恵比べはやらないで済む方が良いんだけどね。