会田誠氏の公開講座にまつわる騒動から考えたことをまとめておこうと思う。

誰かが「つらい」と言った時、まずその話を聴き、受け容れることが最初にこなければならないと思う。

そして、それは本人ですらきちんと言語化できていない可能性も踏まえて聴くべきだとも思う。コミュニケーションとは、言語のみでは成立しないし、本人も気づいていないこともあるかもしれないからだ。ましてや、報道による一部分のみでそのつらさはわからないと思っておくべきだろう。

とにかく、まず「つらい」という気持ちを受けいれるべきだ。なにかを判定したり、見立てを立てたりするのは、その後だ。

誰かのつらさを受け容れる前に自分の気持ちをまっさきに主張するのは、当事者をただ置き去りにしているだけだ。

その「つらさ」が、「誰かの立場から見たら」自業自得のように見えることもあるだろう。しかし、その構図で、貧困をはじめとして、様々なところでこれまでに自己責任の名の下にどれだけ理不尽な犠牲を強いる結果になったか、ということも思い出さなければならないと思う。

何かの活動や、主義主張が、人の尊厳をないがしろにしたり、誰かの犠牲を前提としたり、「それは仕方がないこと」として成立してはならないのだ。

「そんなことを言っていたら何もできない、萎縮する」という意見もあるだろう。
「それでも」「それなら」どうすれば良いかを考え続けることを前提とすべきだ。
誰かの犠牲を良しとした時点で、それは結局、強者側に都合の良い思考停止になる危険がある。

これは最近流行の「ポリティカルコレクトネスによる新たな摩擦」とかいう話で解釈してほしくはない。

「つらい」と言っているひとがいたら、まずはそれを受け止めるところからはじめよう、という、ただそれだけの話だ。様々な問題を議論するのはその後で良いじゃないか。

それに、「そんなこと言ってたらなにもできない」と言うときに、ほんとうに試してみたのか?ということが気になる。

例えば、黒塗りにしなくても、アフリカ系アメリカ人の俳優のものまねが出来て十分に面白くなる方法を試してみたのか?

ダウンタウンは試さなかった。
渡辺直美は試してみて、笑いを獲得した。

これは体罰の議論にも見られることだ。考えれば、体罰を必要としない違うやり方は見つかるし、見つける努力をすべきなんだと思う。

また、今、自分が無理だからと言って、他の人まで無理だと思うのは間違っているし、

自分がなにを
アップデートしていないのか
アップデートできないのか
アップデートしたくないのか

についての自覚がなく、
新しいバージョンの何かに不満を言っているだけではないか、という自省は必要なんだと思う。アップデートしたくない、できないということ自体は必ずしも悪いことではないと思う。僕も加齢とともに、「したくない」「できない」ことがどんどん増えてきている。ただ、そのことを自覚して判断したいと思っている。

もちろん、現実的に、なんらか政治的な意図や過激な思想によって「つらさ」を主張するケースだってあるだろう。
しかし、それは、主張を丁寧に紐解いて行けばいずれ解ることだと思うし
はじめから誰かの痛みを受け入れないことの理由にはならない。

その上で、芸術に関して言えば
そうしたことを踏まえた上で、「芸術の持つあらゆることの想定外を提示する力」を受け入れる社会を作って行ければ良いのだと思うし、僕は、本当の芸術家はそれができると信じている。