やはり気になるから続きも書いておこう。

会田誠氏の公開講座の件。

あれは、芸術論ではなくて教育の話がメインだと思う。訴えも作品というよりはその講義に関することで、しかも大学側が落ち度を認めて謝罪しているにも関わらず、大学が訴えた女性に出入り禁止を求めた(受講、美術モデルの仕事、同窓会)。それを不誠実と受け取った女性が提訴した、という内容だ。なんで訴えを認めたのに出入り禁止にするのか、やはりおかしい。

なので、作品がどうこうではなく、教育・授業の運営の問題である。だから、これによって芸術をしばるような訴えだ、とか言うのは、むしろやや感情的なんじゃないかと思う。

僕は今回の件で、「自分が大切にしているもの」=今回は「アート」が攻撃されているかのように感じた、あるいは好きが故に敏感で、そのように感じてしまいやすい、そして、相手をすぐに攻撃する、ということが、やはり起きてしまうのだな、と思った。アートのところを信条や信仰などにおきかえても良いけれど、たやすく攻撃性が高くなる。これは日野皓正が体罰したときにも似たようなことが起きたけれど、なんであれ、まずは昨日書いたように「つらい、という人をうけとめること」からはじめるべきなんだと思う。

そして、教育に関して。教える、という際に「いろんな人がいる」ということを想定しないのは、もはや現代ではダメだ。クラスの中には性的なトラウマを抱えている人や、LGBTである人や、発達障害の特性のある人などがいるかもしれない。それを当たり前として講義できないのは、多くの人が今回女性を「事前の勉強不足」と批判したのと同じく勉強と認識不足なのだ。なのに、講師の方は許されるのだとしたら、それは「立場の強い人は特別扱いし、立場の弱い人の正当な訴えはスルーする」ということになってしまう。(しかも、今回のシラバスも見てみたけれど、仮に知っていてもこの書き方ではまさかそういう内容になるとは思い至らないかもしれない)

例えば教師が「〇〇を知らないなんておまえ、価値がないやつだな」とかふざけて言ったとする。しかしある特性を持った人はこれを真にうけ、ひどいショックを受けるだろう。もしかするとパニックに陥るかもしれない。

こう聴いて「えー?そんなの受講生がひ弱なだけだよ」と思った人は、教える立場に立ってはいけない。現にそういう人は存在するし、それはその人の特性として当たり前のことで、その人にはなんの罪もない。そういう言い方ややり方をする必要がないのにそういう手法をとった教師の問題なのだ。

芸術は例外だ、とか、そんなことまでやってられない、というなら、それも怠慢だ。(現役の教師たちが忙しすぎてそこまで手が回らない、というのはまた別の話)。芸術自体は確かに例外かもしれないが、教育においては例外ではない。そこまで考えて最善の方法を取ろうとするのが本当の教育者だ。それは公開講座という特別企画であっても、教育の立場になるのであれば考えなければならないことで、そこに知識と技術が足りないのであれば教育機関がサポートしてしかるべきなのだ。はっきり言うと、仮に芸術家として一流でも、優れた教師とは限らない。むしろどこか「教える」ということを舐めているのではないか?それは、保育や幼児教育、義務教育に至るまで、実は蔓延している誤解のひとつだと思う。