娘が保育園から公立の小学校に上がった時に、なかなかその環境の変化に馴染めない様子をみた僕ら夫婦は、私立の小学校という選択肢も考えた。結局それを選ぶことはしなかったのだけれど、僕は、ある小学校の説明会参加した時に抱いた違和感があったのだ。

そこは教育理念に多様性と自由を掲げていて、確かにそこに通う子どもたちは見た目も振る舞いも自由な印象がある。しかし、説明会で、保護者からの入学基準に関する質問に学校は「本校にふさわしいかどうかをみさせていただいております」と答えたのだ。僕はずっとその言葉が気になっていたのだけれど、先日たまたま、自閉スペクトラム症と診断されている子どもが「人をつけることはできないし、うちでは受け入れられない」と入学を断られたという話を聴いたのだ。

私立の学校は、学生募集にどんな基準を設けてもかまわないとは思う。しかし「選ばれた者だけで構成された社会での多様性と自由」とは、いったいどう考えたら良いのか、僕はとてももやもやしてしまい、いまでもそれは続いている。
率直僕の気持ち言えば「そんな多様性と自由はいやだ」となる。そういう世界での「多様性と自由」を謳歌した生徒たちの思う世界の多様性とは、どんなものなのだろうか。
もちろん、人が世界のすべてを体験的に知ることは不可能だ。だから、体験したこと、観たことがあるということを、前提としなければいけないとは思わない。しかし、厄介だと感じるのは、「自分は知っている」と勘違いしてしまうことだ。「自分は多様な人たちが集まっている空間で自由に学んできた。だから多様性や自由が何かは身をもって知っている」と思ってしまうことで、そこからはなにかが決定的にこぼれてしまう危険があるように思う。そしてそういう人の無自覚な善意と意見は、ときに彼らが構成する社会の外の人を、決定的に追いつめてしまう。

それは、自分がどの立場にいるかによっても多分同じようなことは起きて、例えば僕は男性なので、相当意識しないと、僕が感じている多様性や自由は「ガラスの天井(あるいは床)」の上の世界に自分がいるから感じているものに限定されていると思う。この多様性ブームの中で、僕はこれまでも「多様性自体は良いものでも悪いものでもない。ただ、世界は多様であるということは単事実なのだ。事実なのだから、それを認めなければ何かが歪むのだ」と言ってきた。多様であり、自由であることに積極的に「良い価値を見出すと、それをなにか心地よいものであるかのように演出してしまう。演出するためには、「条件をつけて」選別しなければならない。僕は、存在するのにあたってなんらかの条件をクリアすることが必要とされる「多様性」には、明確に拒否感がある。