今年の7月は雨の日が長く続いている。

それで、娘を保育園に送迎していたときの煩わしさを思い出した。自転車に、娘の体が小さいときは前、大きくなってくると後ろのシートに乗せて連れて行くのだが、いずれにせよ、雨よけのビニールに囲まれた狭い空間は、保育園に向かうまでの時間にあっという間にサウナのようになり、しかも曇って景色も見えなくなってしまう。子どもにとって快適であるはずもなく、かなりの確率で彼女は嫌がった。僕にとっても様々な面倒くさい作業と蒸し暑さで、梅雨時は朝から不快なことが多かった。

「そんな朝に、娘はどんな表情をしていたのだろうか?」と、ふと思った。思い出してみようとするのだけれど、頭の中ではフィルムの現像が中途半端なところで止まってしまうような具合でしか映像は浮かび上がらない。ほんの数年前のことなのに、漠然としたイメージしか浮かばない。

考えてみると、イメージに限らず、他のこともだいたい同じようなもので、はっきりとは思い出せないことが実は多い。イメージに関しては、いくつか浮かぶ明確なものは、一部の強力な体験を除いて、撮影した写真が残っている場合から作られている。写真のなかった時代の人間の記憶とは、どんなものだったのだろう、とも思う。

ちなみに、カウンセリングでは「現在」を大事にする。それは「過去」は「どうにもならない」し「未来」は「どうなるかわからない」からだ。しかし「現在」はやはり「過去」の積み重ねによってつくられていて、その事実を受容することが大切だと考える。

また、フランスの哲学者・ベルクソンは、「われわれは、実際上、過去しか知覚していない。なぜなら、純粋現在とは、過去が未来を蚕食してゆく捉えがたい進展であるからだ」と言った。

そのように、今ここに生きている僕は過去の上に成り立っている。しかし、その過去はあいまいで、あいまいなものの積み重ねの上に僕は生きている。なぜあいまいなのかといえば、記録してなかったり、過去をきちんと振り返ったりすることがないからだ。それなのに、つい、もっとあいまいな未来を語ってしまう。

もちろん、すべての過去を憶えておくことなど不可能だし、ある程度忘れることによって人は生きていけるという面はある。しかし、より多くの過去を積み重ねてきたはずの年長者ほど、過去をきちんと振り返ってみることに対して自覚的であるべきなのだろうと思う。僕は今年で48歳になるが、顧みるべき、考えるべき過去は20歳のひとの倍近くあるはずだ。それをせずに、若い人にもっと考えろとは言えない。というか、良いことも悪いこともきちんと顧みた過去がただ提示されさえすれば、「考えろ」などと言わなくても、若い人は勝手に考えるだろう。