先日、昔書いた記事「フリーライダー・嘘・功利主義」をtwitterにあげたところ意外と反応があったので、もう少し詳しい説明を書いてみようと思う。

社会には「公共財」と呼ばれるものがある。公共財とは「非競合性」もしくは「非排除性」を有する財のことだ。

非競合性とは、同じ財やサービスを、皆が追加費用等もなく同時に同量を消費できることだ。

非排除性とは、お金などのコストを負担しなくても誰でも利用できることで、またそうした人を排除できないことだ。

公共財には、たとえば「空気」や「美しい景色」「国防」「安全」などがある。きれいな空気や美しい景色は、誰でも同時にお金を払うことなく享受できる。また「国防」も、特定の誰かだけがこの恩恵を受けられないようにすることは出来ない。警察や消防も同じである。そして、こうした公共財は、フリーライダーを生みやすくなる。

今や「なんらか録音された音楽データ」は、限りなく公共財化しつつあるのかもしれない。1990年代後半から始まったファイル共有、違法ダウンロードから、現在のYoutubeなどの動画共有サイトの登場と定着に至り、非競合性と非排除性の両方がほぼ成立してしまっている。そうであるならば、この「フリーライダー」が増加してしまうのは当然でもあり、なんらかの手段を嵩じなければ、その集団は維持できなくなり、いずれはその公共財自体も損なわれてしまう。

また、フリーライダーの問題と類似した例え話に「共有地の悲劇」という寓話がある。

誰にでも開放されている共有の牧草地があるとする。すると牧畜業者たちはできるだけ多く、自分たちの家畜をそこで飼育して、利益をあげようとする。もちろん、その牧草地の牧草や水は無限ではないので、飼育できる限界がある。
そうすると、牧草地の飼育能力を超える家畜が放たれた時点から、家畜一頭あたりが産出するミルクや肉などが減少しはじめる。
過剰飼育による産出の減少はすべての牧畜業者に及ぶが、各業者あたりの産出の減少分はわずかなので、あまり気にすることもなく、その減少分を埋め合わせるためにも、それぞれの牧畜業者は次々と家畜を追加して利益をあげようとする。その傾向は、この共有地が破綻するまで続 いてしまう。これが「共有地の悲劇」だ。

特に、日本の音楽産業の対象とする範囲が基本的に国内だけになっているとすれば、そこで育成できる音楽家の数は、その「牧草や水」を増 やせないのなら限界がある。にもかかわらず音楽家の数が増えれば、短期的には業者は利益をあげることができるが、長期的には「共有地の破綻」に向かってしまうことになる。この危険はサブスクリプション型のストリーミング・サービスにおいても留意すべき問題だろう。

それでは、フリーライダーをできるだけなくすためには、どのようにすれば良いのか? フリーライダー理論を提唱したオルソンは主に以下の三つの手段を提示している。

1 フリーライダーが発生しにくい、相互監視が可能な小規模集団を形成する。

2 権力や法律等による罰則等による「負の選択的誘因」による強制。これを行使する典型が国家といえる。

3 公共財から得られる利益以外に、参加者のみに与えられる「正の選択的誘因」を与える

1に関しては、小規模の集団の方が組織化しやすく、相対的に集団が小さい方が財の価値は高くなるので、この問題を解決しやすいということがある。これはひとつの有効な方法だが、あたりまえだが「規模が小さい」ことをどう考えるかが問題になる。
2は、強制力を行使できる組織や内容であれば可能だが、難しい場合もあるし、現代社会において極端な強制は不可能という問題がある。

3に関しては、参加すればなんらかの報酬が得られる、というふうに考えても良いかもしれない。そしてその報酬は、まず「金銭的報酬」と「非物質的報酬」の二つに分類される。そして、後者をさらに、「目的」、「地位」、「連帯」に区分する。

「目的」は集団のミッションに対する義務を果たすことによって得られるもの、「地位」は名声や表彰、というようなことから得られるもの、そして「連帯」は、社交や友情といったものから得られるもので、 すべては非実体的で、精神的なものであるところが特徴だ。

そこで、 すごくわかりやすく、「みんなもっと音楽を盛り上げよう、お金を使おう」という運動をやるとする。しかし、音楽という公共財はコストを負担することなしに得ることができるので「ひとりくらい払わなくても」と思うことは、実は合理的な判断となり、フリーライダーが増加する。

罰則等の強制力を行使することは事実上不可能だとすると、「参加者だけが得られる報酬」が必要になる。それには物質的なものと精神的なものがある。様々な形の「特典」をつけるという手段は、その意味で正しいと言える。

しかし、本来ならば特典が音楽自体の金銭的価値を超えることはできない。儲けを完全に度外視するか、音楽のほうがおまけになるという主客逆転になれば可能だが、それでは意味がない。そのためそれによる誘因には限度がある。つまり、特典が音楽の価値を上回ることはできないから、無料で聴ける音楽と有料で聴ける音楽に差異がないのなら、コストを負担して得た音楽から特典の価値を差し引いたとき、金銭的な意味だけではやはりお金を払う方がマイナスになるのだ。そうすると、無料で手に入れる方が功利主義的に考えれば合理的となってしまう。

それならば、非物質的な価値を提供するしかない。それは、精神的な価値ということになる。音楽になんらかの形で対価を支払うことであり、意義を感じるような思想や情報の提供(目的の誘因)することだ。 さらに、それらによって地位や名声が上昇するような地位的な誘因、社交や友情という連帯感が生じることによって得られる精神的価値(連帯的な誘因)を提供する方法を考えてみることが必要となる。そのあたりを意識できるかどうかが、音楽という牧場を破綻させないための鍵になる。精神的な価値や哲学や思想に立ち戻らなければ、いずれはただの荒れ地となる。そのリミットは意外と近いと思う。