先日、9歳の娘と新宿に映画を観に行った帰り、一緒に街を歩いていると、段ボールを抱えてふらふらと歩いている男性がいた。娘はその人に気付くと小さな声で「あの人って、あの、なんて言うんだっけ?」と尋ねた。僕はほんの少し考えて「ああ、たぶんホームレスって言われる人だよ」と答えた。すると「そうか。初めて見たよ」と娘はすこし驚きながら言った。

僕はそのことにちょっとしたショックを受けた。そうか、娘は見たことがなかったのか。

考えてみたら、僕たち家族が暮らす地域では、たしかにほとんど見かけたことがない。たまに雑誌の『ビッグイシュー』を販売している人を駅前等で見かけると、妻はよく購入しているので、そこに娘も一緒なときあっただろうから、そういう意味ではこれまでにも見たことはあったはずなのだが、こういう言い方をするのも何だが、「見るからにそれらしい人」を娘が見たのはこれが初めてだったのだ。

見たことがない。見えていない。見ようとしない、見えないようにされている。

最近では「排除アート」なんてものもある。台風による災害時にも避難所のホームレスの方の使用を巡って騒動があった。

残念なことに、僕自身もホームレス問題について何かを語れるほどの知識も経験もない。しかし、とにかく「見たことがない、見えていない、見ようとしない、見えないようにする」ことに対しては気をつけなければならないと思った。

人は全てのものを見ることはできない。自分の顔や背中すら、自分の目で直接見ることができない。見たことがあっても、見えているつもりでも、いわゆる「木を見て森を見ない」ということだってあるだろう。同じような話で、仏教には「群盲象を評す」という説話がある。これは複数の盲人が象に触れて、それぞれが「象とはこんなものだ」と言い合うのだが、どこを触ったかで「象とはどんな動物か」がまったく変わってしまう、という話だ。これは、目が見えている人でも同じだろう。

それなのに、「見ようとしない」そして「見えないようにする」のでは、さらに問題が大きくなってしまうのはあたりまえなのだ。だから、自分が何から目をそらしているのか、そして何から目をそらされているのか、時々は考えてみなければならないのだろう。