僕は今年『なぜアーティストは壊れやすいのか?音楽業界から学ぶカウンセリング入門』という本を、以前には精神科医の本田秀夫さんとの共著で『なぜアーティストは生きづらいのか?』という本を出している。
どちらの本も、テーマのひとつに「ダイバーシティ(多様性)」がある。そしてこの言葉とともによくセットで使われるのが「インクルージョン」だ。これは直訳すると「包括・包含」という意味だ。
このふたつの言葉を、僕はとても大事だと思っている。その一方で、最近は、気をつけなきゃいけないな、とも感じている。どこが気になっているのか、をこれから書くのだけど、これは幅広い社会学的知見だとか、科学的なデータの裏付けだとかとは関係ない、あくまでも個人的な印象だ。
まず、前提として、僕の性格について触れておきたい。僕は、どちらかと言うと「流行ると嫌になる」類いの人である。もう大人なので、応援してきたインディーズバンドがメジャーになったとたん「なんだかつまらなくなったね」などとは言わなくなったが、どちらかといえばそんなふうに思ってしまうタイプの人間ではある。
実は「ダイバーシティ」という言葉にも同じような感覚はあって、最近は流行の言葉としてそれが安易に使われている場合もあり、そうなると、この言葉を使うことに躊躇いをおぼえてしまうこともある。しかし、現時点ではそれが一番伝わりやすい言葉だろうとの判断で、ぐっと違和感を飲込んで使うことすらある。自分でも無駄な労力を使っているなと思う。
しかし、それはそれとして、これまでも言ってきたが「この世界、人間のあり方が多様であることは事実である」だけであり、それ自体は良いものでも悪いものでもない。ただ「事実を事実として受け容れなければ歪みを生じる」から事実を受け容れよう、その上でどうするか考えよう、ということで、繰り返しになるが「ダイバーシティ」それ自体は良いものでも悪いものでもないと思っている。そこに「ダイバーシティ万歳!」みたいな様子で流行言葉的に使われているのを見聞きすると、昔ながらのファンが、その推しがブレイク後に、いろいろと心の中で舌打ちしてしまう、というような気分になってしまうことがある。
それと同じようなものかもしれないのだが、「インクルージョン」という言葉にも、実は少し違和感を抱くところがある。
この違和感にも、個人的な性格が関係しているかもしれない。正直に言うと、僕は「まぜてやるよ」とか、それが当然の美徳であるがごとく、こちらの都合とは関係なしに「いっしょにやろうよ(そのほうが楽しいよ)」とか言われるのが、凄く苦手なのだ。僕が望むのは、ただ僕という存在を認めてくれて、必要がなければ放っといてくれることである。
「インクルージョン」の反対は「エクスクルージョン」で、これは「排除」とか「隔離」という意味だ。「イン(In)」と「エクス(ex)=語源はギリシャ語で「外の」という意味」が対にあるのはイメージしやすいのだけど、「排除か包摂か」「内か外か」というのは個人的にはしっくりこないところもある。深読みしすぎかもしれないけれど「インクルージョン」には「排除・隔離」が実は前提にあるように感じてもしまう。
そもそも、すべて人の存在がそれぞれ多様な存在であることは、それが内だろうが外だろうが関係ない。どちらの世界でもそこにはひとりひとり違う人がいる。「中に」「包摂する」というよりは「すでに、あたりまえのように、そこにいる人すべて」の多様な存在を認める、それからどうするかを考える、というのが、今の僕の気持ちに近い。もちろん、「それからどうするかを考える」ことは、難しいことでもあるのだけれど。
とりあえず、メリイクリスマス!(太宰治の短編『メリイクリスマス』に飛びます。僕の好きな作品です。)