昨日、小3の娘が「はやくウイルスを倒す薬ができたら良いのに」と言うので、「薬を作るのは時間がかかるんだよ」と言うと当然「なんで?」と聞き返してきた。そこで、僕は薬を開発する専門家ではないので詳しくは説明できないんだけど、と前置きをしつつ「もしかしたら、世の中にはすごく頭の良い人とかいるから、もう作れている人もいるかもしれない。しかし、薬というのはどうしても副反応(副作用)というのがあって、それをできるだけ少なくしないといけないから、いろいろ確かめないといけないんだ。もし99%大丈夫だとしても、それは100人に使ったら1人は死ぬってことで。ということは今通ってる小学校だと8~9人くらい死ぬってことなんだよ。それってすごい人数でしょ?」というような話をした。娘としては納得したようだけど、実は多くの場合、「その8~9人のことは他人事」となってしまう。以前、殆どの人は当事者ではない、ということを書いたのだけど、大体の場合、99%の側にいる人たちは1%のことに思いが至らない。「東京都民の99%は大丈夫です!」と言った場合、実は10万人もの人が大丈夫ではないのだけれど、多数派は少数派に思いが至らない。実際、皆が当事者になるということはなかなかないことなので、普段から当事者という少数派に対する想像力はとても大事なのだ。
今、多くの音楽家たちも苦しんでいる。そして声をあげるようになっている。当事者になってはじめて、いろんなことが自分に無関係ではないということに気付いた、というか無関係でいられなくなった、とも言えるかもしれない。アーティストは「炭鉱のカナリア」のような役割もある。その役割を意識的に担うかどうかは置いて、そうした力を持っていることは再認識しても良いと思う。また、少数派や当事者への無関心は、ときに「ニーメラーの警句」のようなことにも繋がっていく。
「ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた。」
今回の世界的な騒ぎは、どのような姿勢をとるにせよ、どのような意見を持つにせよ、皆が当事者意識を持つ、持たざるを得ない、という特徴がある。それが、どのように社会に反映されていくのか、とても大切なことなのだと思う。
ちなみに娘はドリフターズ、そして志村けんの大ファンだったのだ。