その時代に20代だった人間として、90年代の「ちょっとセンス良さ気自認」界隈(俗にいう渋谷系とかも含む)で重要なことのひとつは「人と違うものを知っている自分」というところだと思う。それはバブルの名残がまだ残っていた時代の影響もあるのかもしれないけれど、CD屋やレコ屋をはしごして「みんなあんまり知らないかもしれないけれどこれが今かっこいい」みたいなのを、メインストリームの音楽を小馬鹿にしながら競い合う。ときに逆張り的にノイズとか歌謡曲とかフォークとかにまで辿り着いて、今これがキテルと持ち上げる。
それはそれで面白かったんだけど、一見既存の権威へのカウンターのようでいて必ずしもそうではなかったところが小さな刺として残り続け、それが後々問題となっていったような気もしている。結局のところ既存の権威と闘うことなくただ冷笑的に小馬鹿にしながら逃避して「ずらしている」だけだった。そしてそれは、あくまでも他者の価値観に対して「程よくずらす」ことで「新しい視点をもっている」ふりをしていただけだった。例えば僕はビーチボーイズは大好きだけれど、当時のビーチボーイズの高評価は単に「ビートルズが好き」と言うよりは程よくずらせる、ちょうど良いアーティストとして機能していたふしもあると思っている。
これは結局のところ、自分の中から発する哲学や美意識ではなく、実は他人や世の中の様子を常にうかがっているスタンスだったわけで、基準が他者にあるから常にアイデンティティが不安定でもある。インターネットが普及して、お店に陳列されている量どころではない情報にさらされた時、自分に基準がない者たちは、それまでのように「程良い選択」ができなくなった。あるいは、自分がそのつもりでも、そう思われなくなったし、以前ほどの承認欲求を満たされなくなった。その「程良い選択」自体も実はその界隈での暗黙の権威にしたがった上で「こんなのもありですよね」と選んでいたわけで、小さな権威が乱立していく中で、どこに依存すれば良いのか(あるいは何に対して逆張りすれば良いのか)見失ってしまった。また、「人と違うものを知っている自分」は、きちんとした検証や思考のないまま安易な「隠された真実」に飛びつき、自分と向かい合うことなくエスケーピズム(逃避主義)を続けている。もう良い歳なんだから、闘うことから逃げたり、安易な逆張りやずらしをしたりするのはやめようよ、同世代よ。