光栄なことに竹田ダニエルさんと対談させていただきました。それに大幅に脱線?しつつ付け足す形で番外編的に僕の論考を書いておきます。長いし面倒臭い内容なので暇なときにでも。
様々なところで竹田ダニエルさんが発信されている論考(こちらやnoteを参照ください)を僕は支持しています。その内容の豊富さと重要さはもちろんですが、「これから必要とされること」を射抜いていると感じるからです。その「必要とされること」のキーワードには「メンタルヘルス」があり、そして他には僕の言葉に置き換えるならば「精神的な価値」「社会的価値」の発信、「インディペンデント、小さなチーム」「連帯」などです。そして、その価値をZ世代は感じ取っています。メンタルヘルス については僕自身もこれまでも発信し続けてきましたので、それ以外のことについて主に「フリーライダー」「マーケティング3.0」という二つのキーワードから考えてみたいと思います。
【フリーライダーという問題】
アメリカの社会科学者のマンサー・オルソンが提唱した「フリーライダー」という問題があります。
“フリーライダー”とは「集団において活動の負担や費用を負担せずにその集団の財を享受する人」のことです。最近では企業等であまり働かずに給料だけを得るような人、のようなニュアンスで使われることもある言葉ですが、ここで言うフリーライダーは意味が少し違います。
社会には「公共財」と呼ばれるものがあります。公共財は「非競合性」もしくは「非排除性」を有する財のことです。
非競合性とは、同じ財やサービスを、皆が追加費用等もなく同時に同量を消費できることです。非排除性は、お金などのコストを負担しなくても誰でも利用できることで、またそうした人を排除できないことです。公共財には、たとえば「空気」や「美しい景色」「国防」「安全」などがあります。きれいな空気や美しい景色は、誰でも同時にお金を払うことなく享受できます。また「国防」も、特定の誰かだけがこの恩恵を受けられないようにすることは出来ません。警察や消防も同じです。
こうした公共財は、フリーライダーを生みやすくなります。非排除性や非競合性を持っている、つまり誰でもコストの負担なしに利用でき、しかもそれが大規模な集団であれば、「功利主義的な個人」は「一人くらい行動や負担をしなくても大丈夫」と考えます。それが合理的だからです。そうして、自分はなんら負担することなく集団の利だけを得ようとする人々が増え、その結果として集団自体が維持されなくなってしまう、というジレンマが生じてしまいます。そのため、公共財を市場に任せることは難しく、かわりに国家が税金等を強制的に徴収してなんとか成立たせることになります。
また、フリーライダーは金銭的なただ乗りというだけではなく、なんらかの社会運動等にも見られます。
社会運動では、社会問題の解決のために人々の参加協力が不可欠です。しかし、すでに運動が起きているとき、それには参加せずに、その運動による成果だけを受け取ることが最も合理的である、というような行動を選択してしまうのです。なんらかのデモのような、わかりやすい活動・行動に対してだけでなく、投票に参加しないという行為や、環境問題などの認識はありながらその解決に向けた行動には協力せず、他の人々の行動の成果のみを享受しようとするような姿勢もフリーライダーにあたるでしょう。これらは、これまでの功利主義的・新自由主義的な旧世代の姿勢とも一致します。
これを音楽産業に関しても当てはめてみます。少なからぬリスナーは音楽を無料で求め、あるいは無料であることが当然であると考えるようになってきています。それもまたフリーライダーです。今や「なんらか録音された音楽データ」は、限りなく公共財化しつつあるのかもしれません。1990年代後半から始まったファイル共有、違法ダウンロードから、現在のユーチューブなどの動画共有サイトの登場と定着に至り、非競合性と非排除性の両方がほぼ成立してしまっています。そうであるならば、この「フリーライダー」が増加してしまうのは当然でもあり、なんらかの手段を嵩じなければ、その集団は維持できなくなり、いずれはその公共財自体も損なわれてしまいます。
【フリーライダー問題の防止策】
それでは、フリーライダーをできるだけなくすためには、どのようにすれば良いのでしょうか? オルソンは主に以下の三つの手段を提示しています。
1 フリーライダーが発生しにくい、相互監視が可能な小規模集団を形成する。
2 権力や法律等による罰則等による「負の選択的誘因」による強制。
これを行使する典型が国家といえます。
3 公共財から得られる利益以外に、参加者のみに与えられる「正の選択的誘因」を与える
1に関しては、小規模の集団の方が組織化しやすく、相対的に集団が小さい方が財の価値は高くなるので、この問題を解決しやすいということがあります。これは対談の中で竹田ダニエルさんが「相互監視の目がある事でより良い物が生まれる体験を少しずつ積んでいければいいなと思っていて」ということにも通じますし、現代のZ世代が小さなインディペンデントなコミュニティを大切にしていることとも繋がるかもしれません。
2は、強制力を行使できる組織や内容であれば可能ですが、難しい場合もあるでしょうし、現代社会において極端な強制は不可能という問題があります。
3に関しては、参加すればなんらかの報酬が得られる、というふうに考えても良いかもしれません。そしてその報酬は、まず「金銭的報酬」(pecuniary rewards)と「非物質的報酬」(nonmaterial rewards)の二つに分類されます。そして、後者をさらに、「目的」(purpose)、「地位」(status)、「連帯」(solidarity)に区分します。
「目的」は集団のミッションに対する義務を果たすことによって得られるもの、「地位」は名声や表彰、というようなことから得られるもの、そして「連帯」は、社交や友情といったものから得られるもので、すべては非実体的で、精神的なものであるところが特徴です。特にこの「目的」と「連帯」はまさにZ世代の特徴と言えます。
まとめると、公共財はフリーライダーを生みやすい。したがって社会運動を含む公共財から利益を享受する集団が大きくなっていくとき、集団と公共財の維持のためには、選択的誘因によってフリーライダーを防止することが必要。それには、参加することによって得られる金銭的報酬か精神的な価値が必要になる、ということです。
再度音楽産業に当てはめて考えてみます。すごくわかりやすく、「みんなもっと音楽を盛り上げよう、お金を使おう」という運動をやるとします。しかし、音楽という公共財はコストを負担することなしに得ることができます、「ひとりくらい払わなくても」と思うことは、実は合理的な判断となり、フリーライダーが増加します。
罰則等の強制力を行使することは事実上不可能ですから、「参加者だけが得られる報酬」が必要になります。それには物質的なものと精神的なものがあります。様々な形の「特典」をつけるという手段は、その意味で正しいと言えます。しかし、特典が音楽自体の金銭的価値を超えることはできませんから(儲けを完全に度外視すれば可能ですが)、それによる誘因には限度があります。つまり、特典が音楽の価値を上回ることはできませんから、無料で聴ける音楽と有料で聴ける音楽に差異がないのなら、コストを負担して得た音楽から特典の価値を差し引いたとき、金銭的な意味だけではやはりお金を払う方がマイナスになるのです。そうすると、無料で手に入れる方が功利主義的に考えれば合理的となってしまいます。
それならば、非物質的な価値を提供するしかありません。それは、精神的な価値です。音楽になんらかの形で対価を支払うことであり、意義を感じるような思想や情報の提供(目的の誘因)することです。さらに、それらによって、社交や友情という連帯感が生じることによって得られる精神的価値(連帯的な誘因)を提供することが必要なのです。
【マーケティング3.0という考え方〜価値主導の時代】
「精神的な価値」という言葉を聞くと、曖昧な印象を持たれたり、「きれいごと」のように感じてしまったりする人もいるかもしれません。
しかし、これは現代のマーケティングにも通じていることです。「近代マーケティングの父」と呼ばれ、ウォールストリート・ジャーナル紙の「最も影響力のある経営思想家ランキング」で上位6人の一角を占めるフィリップ・コトラーの提唱する「マーケティング3.0」という考え方があります。
コトラーはこれまでのマーケティングを次のように説明しています。
はるか昔の工業化時代、すなわちコア・テクノロジーが工業用機械だった時代には、マーケティングとは、工場から生み出される製品をすべての潜在的購買者に売り込むことだった。製品はかなり基本的で、マス市場のために設計されていた。規格化と規模の拡大によって生産コストをできるかぎり低くし、価格を下げてより多くの購買者に買ってもらおうとしたのである。ヘンリー・フォードのT型車はこの戦略の典型だ。フォードはこう言い放った。「顧客は好みの色の車を買うことができる。好みの色が黒であるかぎりは」。マーケティング1.0、すなわち製品中心の段階だったのである。
マーケティング2.0は今日の情報家時代、すなわち情報技術がコア・テクノロジーになった時代に登場した。マーケティングの仕事は複雑さを増した。今日の消費者は十分な情報を持っており、類似の製品を簡単に比較することができる。製品の価値は消費者によって決められ、その消費者の選好はバラバラだ。マーケターは市場をセグメント化し、特定の標的市場に向けて他社より優れた製品を開発しなければならない。(中略)今日のマーケターは消費者のマインドとハートをつかもうとする。この消費者中心のアプローチは、残念ながら、消費者がマーケティング活動の受動的なターゲットであるという見方を暗黙のうちに前提にしている。これはマーケティング2.0、すなわち消費者志向の段階の見方である。
ここまでが、これまでのマーケティングです。「製品中心」から「消費者中心」へと変わってきたという流れです。そして、現代は「価値主導のマーケティング」であるといいます。
現在、われわれはマーケティング3.0、すなわち価値主導の段階を目の当たりにしている。マーケターは人びとを単に消費者とみなすのではなく、マインドとハートと精神を持つ全人的存在ととらえて彼らに働きかける。消費者はグローバル化した世界をよりよい場所にしたいという思いから、自分たちの不安に対するソリューション(解決策)を求めるようになっている。混乱に満ちた世界において、自分たちの一番深いところにある欲求、社会的・経済的・環境的公正さに対する欲求に、ミッションやビジョンや価値で対応しようとしている企業を探している。選択する製品やサービスに、機能的・感情的充足だけでなく精神の充足をも求めている。
こうした変化は、テクノロジーの変化・進化とともに、社会のグローバル化が一因だとコトラーは言います。
グローバル化は、世界の人々を解放しますが、同時に抑圧もします。また、グローバル化はすべての国にとって平等な土俵を生み出しますが、一方で諸国は国内市場をグローバル化から守ろうとし、ナショナリズムを呼び起こします。グローバル化は、経済は開放しますが、政治は開放しません。また、グローバル化は経済統合を必要としますが、平等な経済は生み出しません。そして、グローバル化は多様な文化を生み出しますが、同時にそれに対抗する伝統的文化を強化します。
このようなパラドックスは、国や企業だけでなく、当然個人にも影響を与えます。こうした矛盾をはらんだ混乱期には多くの人々が不安を抱きます。そしてそれは、貧困や不公正、環境の持続可能性、地域社会に対する責任、社会的目的等に対しての意識や関心を高めます。そうした個人の変化は、当然ながらマーケティングにも影響を与えます。つまり、マーケティング3.0という、精神の充足をも求める、価値主導のフェイズに移っているのです(コトラーはすでに次のフェイズであるマーケティング4.0を提唱しています)。
これらは現代のZ世代、そして主に海外のアーティストたちの動きと符合するのではないでしょうか?
【参照】
『集合行為論〜公共財と集団理論』マンサー・オルソン著 依田博/森脇俊雅 訳 ミネルヴァ書房
『コトラーのマーケティング3.0 〜ソーシャルメディア時代の新法則』フィリップ・コトラー ヘルマワン・カルタジャヤ イワン・セティアワン 恩蔵直人 監修 藤井清美 訳 朝日新聞出版
「ミュージシャンの社会の中での地位、手島将彦と竹田ダニエルが語る」 Rolling Stone Japan 2020.09.01