TVODの『ポスト・サブカル焼け跡派』。とても面白かったし、「なるほどなあ」と思うことが多かった。その中で、この本のいくつかあるキーワードのひとつの「自意識」について、カウンセラーでもある自分なりに考えたことを書いておこう。
まず、この本の中で言う「自意識」とはなにか。著者のひとりであるパンスさんの言葉によると「近代以降、共同体から個人として切り離された人々によるアイデンティティ獲得への意思」である。また、社会学者の日高六郎の説を引用して「戦前の滅私奉公から滅公奉私への変化」があり、つまり「勝手にサバイブしていく」ことであり、高度成長を経てサバイブの必要が減ると「私とは」という問題が残るようになり、その結果自らの主体性を獲得する方が優先され、その後のサブカルチャーが「自意識の主戦場」となっていった、と説明されている。
この「私とは」「アイデンティティ」の問題について『社会的自我論の現代的展開』(船津衛・東信堂)を参照してみる。そこではおよそ次のように説明されている。
現代はグローバル化、情報化、社会の急激な変化によって、リアル/ヴァーチャルも含めて、多重的・多面的・多層的な自我を有するようになっている。自我は「脱中心化」が進められ、統一的、首尾一貫的なものから分散的、多岐的なものになっている。それによって、「本当の私」がなんなのかわからなくなり「アイデンティティ・トラブル」を生じさせることもあるが、それは「自我の消滅」ではなく、「近代的自我のイメージの消滅」を意味する。つまり「新たな自我の出現」である。自我を孤立した本質的実体として考える独我論的な「近代的自我」のイメージでは現代人の自我の形成と変容を十分に理解し得なくなっている。現代人の自我は、自立的な個体的自我から相互依存的な関係的自我に変わってきている。自我は他者との関わりにおいて社会的に形成される。
つまり、現代社会の自我・アイデンティティは『ポスト・サブカル焼け跡派』で指摘されていた「近代以降、共同体から個人として切り離された人々によるアイデンティティ獲得」から次のフェイズに移っている。しかし、それに気付いていない人々は未だに統一的・首尾一貫的な自分を探し続け、疲弊しているのかもしれない。つまり、「(政治的なことも当然含めた)社会から離れる」こと自体が、現代的な自我・自意識を確立できなくしているのだ。
しかし、この「現代的自我」というようなものには、様々な問題がある。再び前掲書によると、人々の自我は他者に強く依存し、他者の期待を受け入れ、自分をそれに合わせるようになってきている。そこでは自分の感情を操作し、いわば「うその自分」を相手に示すことになってしまう場合がある。そうなってしまうと、メンタルも含めて様々な問題が生じてしまう。それを回避するためには、他者の期待をそのまま受け入れずに、他者に積極的に対応し、他者の期待を変えていく必要がある。
これなんかはまさに『ポスト・サブカル焼け跡派』の中で取り上げていた大森靖子の姿勢と一致する。以下引用。
コメカ「私は私が認めた私を認めさせたい 何が悪い」、つまり、コミュニティ内部の関係性が自分に与えてくる「キャラクター」を受け入れるのではなく、「私が認めた私」=自分自身の手でつくり上げた「私」のキャラクターをコミュニティ、ひいては社会に対して認めさせるぞ、という反抗。しかも重要なのは、そのときの手段が「キャラクター」という概念そのものから降りる=関係性や社会から降りる、というナチュラル志向・実存本位の方向ではなくて、完全に自分の意志で「キャラクター」をつくり出して、闘争的に社会に乗り込んでいく、という志向であること。
ということで大森靖子は正しい、ということになるのだけれど、とにかく、「私とは?」問題の解決には、社会と関わっていくことが不可欠な時代になっているのだ。