昨日はこれまでも対談などさせていただいてきた印藤勢さん(マシリト)とドラマーのウエダテツヤさんとトークライブ「中央線人間交差点」を大塚Meetsで行ってきました。アーカイブがしばらく観られるようなので、興味ある方はぜひご覧ください。
最後で僕は、「好きなことは大切にした方が良い。仮に今それができないとしても、30歳でできなくても、40歳になったらできるかもしれない。とにかく好きなことができないことで、それを手放して、無理矢理別のものにすり替えたりしない方が良いと思う、みたいなことを言いました。
で、そういえばこのお二人ともなんだかんだで長いお付き合いだな、と思い、過去のイベントの記録等を眺めていたら6年前くらいに「NAGESEN MEETING」というのを印藤さんとやっていて、そこで以下のようなことを僕は言っていたようです。基本的に言ってることはあんまり変わってないし、たぶん今もけっこう大切なことなんじやないかな、と思っています。以下その時の発言のメモ。
「僕は『音楽がなくっても生きていける/死なない』という言い方を、音楽をあまり聴かない人のみならず、ときにミュージシャン自身も卑下して言うのが嫌いだ」と言いました。
確かに音楽がなくても死にはしない。
そして本当に具合が悪い時は、音楽なんか聴きたくなくなることもある。
しかし、そんなことを言い出したら、片手を失っても死にはしないし、それどころか四肢・目・耳・声を失っても死にはしないかもしれません。
ですが、死にはしないけれど、やはり腕や脚や目や耳や声は大切なのです。
同じように、音楽はなくても生きていけるでしょうが、やはり大切なものです。
そう言うと「音楽と、自分の肉体を同列に語るな」と言う人が出てくるでしょう。
問題はここです。
そう思うのは、そう言う人の価値観や感覚からすればそうなのだ、というだけであって「他人も同じとは限らない」という視点と思考が欠けています。
ある人にとって音楽を失うことは、もしかすると自分の肉体を失うことと同じくらいつらいことかもしれません。この「音楽」は、その人にとって大切な他の何かにも置き換え可能でしょう。
それは「生きづらさ」にも同じことが言えるでしょう。
自分にとっては平気なことでも、誰かにとっては自分の体の一部をもぎとられるくらい辛いことかもしれません。「他人も同じだろう/同じであるべき」という思考や「ある人から見ればどんなに取るに足らない小さなことのようにみえることであっても、誰かにとってはとてつもなく大切なことだってあるのだ」ということへの無配慮はできれば避けたいと思うのです。そして同じように、自分にとって大切なものは、簡単に手放したりしてはいけないとも思います。