以前、Rolling Stone Japanでの連載で「感情労働」について取り上げたことがあります。これは社会学者のA.R.ホックシールドが提示した「頭脳労働「肉体労働」以外の労働の概念で、現代においてはこの感情労働の比率は高くなっています。それは音楽家も例外ではありません。職業人としては、顧客が要求する情動や感情を、音楽を通じて提供しなければなりません。音楽家としてはそこでいかに自分の心理的な負荷を処理していくかが問題となってくるのですが、それについては詳しくは連載記事やmoumoonのYUKAさんとの対談記事などを参照していただきたいと思います。ここでは、これを端緒として、昨今しばしば音楽シーンについて使われる「民主化」という言葉について再度考えてみたいと思います。
ここでの「民主化」という言葉は「皆が制作者としても聴衆としても参加できる、皆がヒット曲を決めることができる」などの意味で使われることが多いようです。これについては以前一度「『音楽の民主化』に潜む課題と批評への期待」というタイトルでブログに書いたのですが、そこでは「制度やシステム、社会基盤が揃うことだけでは民主化はなし得ないので、市民=リスナー自身の向上とそのための教育が不可欠、したがって批評が重要になる」というようなことを書きました
さて、今回は「感情労働」の側面から考えはじめてみるのですが、音楽家は感情労働として消費者の意向を反映した情動を音楽を通して提示します。ポピュラーミュージックは消費者のそうした意向の反映具合で人気が決まるわけですが、それがSNSなどの登場で「民主化」されたというのが昨今流行りの言説です。
しかし、その消費者の意向は本当に消費者によって決められているのでしょうか? 若尾裕氏はその著書『サステナブル・ミュージック〜これからの持続可能な音楽のあり方』(アルテスパブリッシング)の中で「じつは消費者が反映させたい情動は、社会という管理のフィルターを通過して出来上がったものなのである」と指摘しています。そして「音楽の情動は資本主義による『世界音楽』という都合の良い管理機構の傘下に管理されており、人々はそれを買うことによって自分のものにするのであり、さらにその情動が消費者によって濾過され純化され、次に生産される音楽にフィードバックされる」といいます。そしてそのサイクルはどんどん画一化されていき、ループします。こうした現象はミシェル・フーコーの言う「生政治」「パノプティコン」などと通じていて、自分で選んでいるかのように見えて実は権力に管理されている、とも言えるものです。
若尾氏は同書の中で、そうした現象から音楽が離脱できる可能性についていくつか提示されているのですが、その中の一つに「参加型音楽」があります。音楽には「参加型音楽」と「上演型音楽」があります。参加型音楽とは、様々な共同体で住民たちがみんなでやっているような音楽のことで、ガムランや盆踊りなどがそれにあたります。上手い下手はあっても、誰もが参加でき、参加することに価値があります。一方の上演型音楽は、人前に聴かせるプロフェッショナルの音楽で、資本主義経済の中で流通している音楽です。参加型音楽は消費的な側面が少ないので、そうした音楽がもっと復興することで、音楽をもっと自由にさせることにつながっていく可能性があるのです。
僕はその指摘に賛同しつつも、その参加型音楽自体も資本主義に飲み込まれつつあるのではないかとも思うのです。昨今のUGC(User Generated Contents)ブームなどは、その現れではないかと考えます。先程の感情労働に関しての「じつは消費者が反映させたい情動は、社会という管理のフィルターを通過して出来上がったものなのである」ということと、UGCには同じ構図を見出せるのではないでしょうか。「ユーザー(User)」という言葉自体が、音楽をミュージッキング的な「行為」としてではなく「モノ」として捉えていることの表れだと思いますが、「皆で参加している」ように見えて、その行為は市場や権力の管理下に置かれていて、個として存在しているようでいてその実は漠然とした集団を形成する要素として、音楽をモノとして消費しているように見えます。それは「民主化」と呼んで良いものだとは思えません。
この考察は、正直なところまだ浅い、メモ的な段階ですので、多々綻びがありそうなのですが、検討する意義があるように感じています。そして「音楽を行為として捉えるミュージッキング的な姿勢」「消費でなく本当の意味での参加型な聴衆・批評活動(例えば自主的な同人活動など)が、今後より重要になってくるのかもしれません