民主主義を考えるときに「合理的無知」という問題があります。

これは、簡単に言うと「日々自分にとって有益な情報を得るために費やす時間やお金(コスト)を、政策を評価するために使う気になれない」という「合理的な選択」の結果として「無知」になる、ということです。

人々が経済的な合理性を優先するならば、合理的無知を選択するのはある意味当然です。仮に、何らかの政策を評価するために新聞やWEBの記事、書物などを毎日時間をかけて読んだとしても、個人には1票しかない(と考える)ならば、そこからの見返りはとても少なく感じられ、日々の生活でもっと見返りを得られるような情報収集に時間もお金も費やした方が良いと考えるわけです。そうした状況では、政策に関して吟味するような人は、政治が好きとかそうした議論が好きという、いわば「趣味人」に限られてしまいます。

また、有権者に対して情報を届けるためにはコストがかかります。そうすると、そのコストを負担できる人や集団の方が政治的に有利になります。特に経済界はそうした力を持ちやすくなりますので、どうしてもそちらにバイアスがかかってしまいます。政治家も、有権者を説得するよりは、無知や誤解をそのままにして、あるいはむしろそれを増幅させてポピュリズムに走ったほうが合理的になります。そこへ、さらにアテンション・エコノミーが加わって、特定の利益に向かう方向へ誘導していきます。

こうした現象を解決するのは簡単なことではありませんが、そのための手段の一つはアカデミズムにいる研究者たちによる啓蒙活動、政治に関心を持つこと自体に魅力を感じさせるような、それがコストをかけるだけの価値があるものなのだと思えるような意識の開墾が必要です。現時点では、意識的にそうした活動を行う研究者がまだまだ少なかったり、伝える手段がまだ洗練されていなかったり、いわゆる「上から目線」の言葉だったりというところから、うまくいっていないように見えます。

さて、これは音楽をめぐる状況にも似たようなことが言える部分もないでしょうか? ただポピュリズムや過剰なアテンション・エコノミーをブーストすることを指して「音楽の民主化の促進」と言っていないか、単なる多数決至上主義に陥らず、少数派が自分の権利と独自性が擁護されていると確信できているような社会を持ってしてはじめて「民主化」と言えます。そうしたことに気をつける必要があると思うのです。