録音・再生技術が現れるまで、音楽は基本的に、そこに演奏する人がいなければ聴くことができなかった。だから、自分一人で、そこに誰かいなくても音楽を聞くことができるようになったのは、人類にとってほんの100数十年のことだ。

 「そこに人がいる/いない」ということは、僕らにとっては結構大きなことだ。そこに実際に人がいれば、嫌でもその人のことが音楽とある程度一体化するだろうし、あるいは、その「身体性」というものが、視覚的にも聴覚的にも、さらには皮膚で感じるような体感においても伴ってくるだろう。

 「そこに人がいない」という場合、そうしたものが一切なくなってしまうということでもないだろうが、やはりかなり薄まってしまう。しかし、それゆえに受け手の想像力は増す。録音・再生技術の誕生によって、複製による拡散が可能になったということだけでなく、この「実在性」「身体性」からの解放が可能になったことも、ポピュラー・ミュージックが世界的に流行した一因でもあると思う。

 この「実在性」「身体性」からの解放、あるいは「喪失」とも言えるかもしれないが、それは昨今の匿名的なアーティストたちや、バーチャルな表現、更にはAIによる音楽制作などの隆盛にも関係しているようにも思える。受け手にとって、作品と人間性は、関係がなくなればなくなるほど、二次創作的なことも含めて作品の享受はしやすく、想像力は解放される。もしくは、単にコンテンツやBGMとして消費しやすくなる。

 では、人間の「実在性」や「身体性」が必要なくなるのかといえば、おそらくそんなこともないだろうことは、スポーツの受け取られ方を観ているとわかる。100メートルを9秒台で走ったところで、チーターが本気を出した方が早いことを僕たちは知っているし、どんなに早く泳いでもイルカにはかなわないだろうことも知っている。それでも惹かれるのは、「人間がやっているから」だ。そこには、人間の「身体性」と、その人の実在に伴うなんらかの「人間性」があり、そこが評価と、有り体の言葉で言えば「感動」の対象となっている。

 僕たちは、「音楽を聴く」というとき、もしくは「作る」というとき、この人間の「実在性」と「身体性」を伴った「人間性」をもう一度考える時に来ているのかもしれない。作品と人間性を切り離すのであれば、いずれAIが作成した楽曲で十分ということになるかもしれないが、多分それだけでは僕らは満足できない。どんな人間が、どんな思想と主張と生き方を持って、どんな音楽を、どのようにやるのか、それはどんな歴史的な文脈と今その時点での意味を持っているのか、そんなことがより重要になってくるのではないだろうか。そして今まさにそういうことが問われ始めているのかもしれない。