先月の9・28にexPoP!!!!!という歴史あるライブイベントの「音楽とメンタルヘルス」というトークパートに出演してきました。そこではいろんなことをお話ししたのですが、一つだけメモがわりにここに書いておこうと思います。
「コロナ禍以降で何が変わったか」という問いに対し、僕は「人が集まる、人に出会って話をする、というときに、それをやらなければならない意味や意義、価値を提示しなければならなくなり、感染予防も含めてそうしたクリアしなきゃいけない条件が生じるようになった」というようなことを言いました。
それまでは、ただそこに行って、そこに居て、何かしても良いし、何もしなくても良いし、誰かと話をしてもしなくても良いし、話のテーマや中身だってただの雑談で良かったのです。ところが、そうやって「ただそこに居る」ということが難しくなってしまいました。
実は、このことが意外と大きいと僕は考えています。例えば、自分の家に居るのに「そこに居る理由」や「そこで果たすべき義務や生み出すべき価値」などを日々・四六時中要求されたら疲れてしまいます(そういう家もあるのですが、、)。人は「ただそこに居られる」からこそ生きていけるし、そもそも誰かが存在することに何らかのクリアすべき条件というのは基本的にありません。
この辺りは、コロナ禍以前から「何か役に立つ」とか「何か人より優れている」とかの、いわば自己有用感もしくは自己効力感のようなものを「自己肯定感」と思い込む風潮と通じるように思います。本来の自己肯定感は「自分が自分であって大丈夫」という存在レベルでの肯定感であって、有用感や効力感はもちろん大事ですが、それはあくまでも機能的なレベルにとどまるものです。大事なのは、誰かが存在することにはなんの条件もいらない、ということなのです。
また、科学の分野においても昨今「選択と集中」などといって「すぐ役に立つもの」を優先させたばかりに、実は結果を伴わなくなってしまった、ということもあります。今すぐ何の役に立つかわからないものであっても、それがどこかのタイミングで大きな発明につながる、ということは歴史的に多々あることです。そのように、ただ集まって、ただ話をする、というような、いわば余白のたくさんあるコミュニケーションというのは、同じようにとても重要なことだと思います。
また、たまに「音楽は生きていくのに必要ない」と卑下したように言う人もいます。確かに音楽がなくなっても死なないかもしれません。でも、そんなことを言ったら、腕を、目を、足をなくしても死なないかもしれません。しかし、腕や目や足は、大切です。同じように、音楽に限らず、そのように大切なもの、というのは人にはあるのだと思います。
そうした場の一つがライブハウスやクラブ、フェスなどだったでしょう。そこはどんな人がいても良くて、ルールの範囲内ならどんな楽しみ方をそれぞれがしても良い場所でした。そうした場での体験が減ってしまうことの影響も大きいでしょう。ちなみに僕は社交性が低く、あまり人と集まったり話したりということをしないのですが、そういう場は別に一人でいても構わないですし、一人でいて何もしなくてもすごく多くのことを感じ取れる場所なんですよね。
先日僕はこのようなツイートをしました。
ライブハウスで客が5人とかでも、その人たちが真に感動するなら本当に素晴らしいことだし、実際それは演者と聴衆双方が感じ取れた。動画の再生数だってそれが少なくても本当に誰かに届いているのなら同じはずなんだけど、そうした相互関係が感じられなくなって、表面的な数に振り回されすぎている。
https://twitter.com/masa_hiko_t/status/1445323626668912646?s=20
オンラインでのコミュニケーションや働き方が発展することで、とても良いことも増えましたし、それによってむしろ生きやすくなった人もいるでしょう。しかし、何かが変わるときには、全て得ることばかりではなく、必ず何かが失われます。僕は、その失われてしまうものに対しても、もう少し気を向けておこうと思います。物事の価値は、その時にわかる意義や価値や数値だけでは図れません。そして、どうしても何にでも意味や意義や価値を見出そうとしてしまいがちですが、「居ることに意味づけや条件の必要がない場所」はとても重要なのだと思います。