先日こういうツイートをした。

大人になるとは常に更新しつつも自分らしさを自律して保てるようになることでもあって、一般的に言う「大人になれ」は、自分の意志と向上心や好奇心をなくし身体的に老いただけの状態。嫌なことやおかしなことをただ我慢して飲み込むのは子どもだってやってるんだからそれは大人の条件じゃないと思う。

https://twitter.com/masa_hiko_t/status/1470668728258166785?s=20

「大人になれ」もそうだが「現実的に考えて」とかそういうふうに言われることがある。それはそれで大切なことなのだけど、ではその「大人」や「現実」とはいったい何なのか?ということを意外とちゃんと考えていない気がする。

僕なりの「大人」とは先のツイートのように「常に学んで更新しつつも、それでいて自分らしさを自律して保てるようになること」が一つの要素だと思っている。人のアイデンティティというのは一生を通じて必ずしも一つや一貫したものではない。誰もが歳をとっていくし、それによって身体的にも変化する。すると若いときにできていたことができなくもなる。人によっては結婚したり子どもができたりして、自分の生活環境が一変したりもする。社会の様子もいつまでも同じではないから、それの影響も受けてしまうだろう。そうした中でも、螺旋を描くように時には七転八倒しながら、自律して自分らしさを保って生きていく。また「自律」とは自己責任ではない。自分には何ができて何ができなくて、できないことは誰かに頼れることでもある。またそれができる社会でなければならない。

ところが日本では学びが若いうちに止まってしまうらしい。以下は舞田敏彦さんのツイート。

この国では,学びは人生の初期で止まるのか。 変動の激しい時代,子ども期に学んだ内容など直ちに陳腐化するってのに。

https://twitter.com/tmaita77/status/1408391439159943175?s=20

何と25歳くらいで学ばなくなってしまうのだ。学ばなくなった者の語る「現実」とは古びた知識の色眼鏡をかけて見た現実で、それが正しい現実と言えるのだろうか。もしくは目先のことだけを考えることを現実と言うならば、それは中長期的には非現実的なことになってしまう危険がある。

一般的に「大人になれ」と言う場合の大人とは、冒頭に書いたように、学ぶことをやめてただ現状を無批判に受け入れて、ただ身体的に老いていくこと、嫌なことや理不尽なことを飲み込むことを指していることが実は多い。そして後者の「飲み込むこと」を「大人になるために必要なことだ」として子ども達に無理強いをする。本当は、大人になるということは、そうしたことを否定して生きること、そのように生きないですむような社会を次世代に残す努力をすることでもあるのではないかと思う。