『闘う読書日記〜サミズダット』(佐藤祐介著・Art Days)を読んだ。この本は作者が死後、その遺品整理の際に発見された日記で、それを大学時代の友人たちが出版したものだ。どうしてこの本を僕が読んだかといえば、僕自身も学生時代にこの作者とは友人を通じて紹介され、何度か話をする機会があったからだ。そして、その際の印象が強烈すぎたのだ。

当時、たいして本も読まず、社会についてなど特に何も考えていなかった自分にとっては、本当に誇張でも謙遜でも何でもなく「自分はこの人の100分の1も知識・教養がない」と思った。それに加えて大正・昭和初期の時代からタイムスリップしてきたかのようなその風貌と物腰と独特の淡々とした語り口。僕は彼と友人と言えるような関係性ではなかったし、取り立てて彼に影響を与えるようなこともなかったが、とにかく僕にとってインパクトのある人物だったのだ。冒頭に野尻英一さんが「驚嘆すべき人だった。先にも述べたように思想、哲学のみならず、文学や芸術にも通暁し、いわゆる古典名作と呼ばれるものにことごとく目を通しており、そのすべてについて自分の意見を持っていた。しかも、社会を変革しなければならないという明確な目的意識とともに、だ。私はサトー君の呼称は『ウォーキング・ライブラリー』にあらためるべきだと主張した。」と書かれているが、まさにそんな人だった。

そんな彼が49歳という若さで亡くなったと友人から聞き、日記が本になっていることを知った。先にも書いたように、僕はただ彼を知っているというだけで、関係性は薄い。しかし僕の記憶に残った強烈な印象と、その後の20数年の時間で少しは自分もモノを考えるようになったと思うし、50歳になった自分がこれを読めばどう思うのか、何を感じるのか、という興味が、この本に向かわせた。作者を少し知っているくらいの自分が感傷に浸るのはおかしいし、そのつもりもない。ましてや死んだということによって美化されるようなことをおそらく彼は嫌うだろうから、そんなつもりも毛頭ない。あくまでも一読者として読もうと思った。

そして読んだ。相変わらず圧倒的だった。ほとんどの本を僕は読んだことがなかった。人名も知らない人が多かった。特に自分が関心の薄い方面(ソ連・ロシア哲学等)に関しては全く歯が立たない、というかわからなくて、「そういうものなのか」とただ読むだけになってしまったし、それ以外の様々な考察の多くも、論理としての難しさというよりはその視座や思考の深度のために何度か反芻して咀嚼しなければならなかった。これは、この本の批評など、僕には無理だと思った。なので、単なる印象を書くことにする。これを前にして自分が書けるのはそれくらいしかない。近しい人や詳しい人には「何を頓珍漢なことを書きやがって」と言われそうで怖いが、それでもなぜ書くかというと、読むべき人に読んでもらえるようなきっかけになればと思うからだ。ぜひ、思想・哲学に長けた方々に広く読んでもらって批評してもらいたい。そして、そうでない人にもこの生き様には何かを感じるのではないかと思うのだ。

一読して思い出したのは、坂口安吾の『不良少年とキリスト』だった。坂口安吾独特の皮肉、諧謔に満ちた文章で書かれたこの作品と、この日記の文体や雰囲気が似ているように思ったのだ。そして、この作品は太宰の死後に書かれたある意味追悼文のようなものなのだが、「太宰が死にましたね」と檀一雄から言われ(坂口安吾は実は壇よりもそれを先に知っていたのだけれど)本来の目的である追悼文的なくだりにたどり着くまで、長々と「歯が痛い」ということと女房とのやりとりを軽妙に書き連ねていく。何というか、とても大事なことを話す前に、教養と諧謔に満ちた長い前振りをつけるという美意識や美学とでもいうようなものは、昨今すっかり失われてしまっていると感じるけれど、佐藤祐介の日記はそうした美学が貫かれている。そして、これは後付けの解釈に過ぎないのだけど、まるで彼が自分で自分の追悼文を書いているかのようにも感じてしまうのだ。

最後、『不良少年とキリスト』から。


 然し、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦いぬく、言うは易く、疲れるね。然し、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありやせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません。たゞ、負けないのだ。
 勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てる筈が、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。
 時間というものを、無限と見ては、いけないのである。そんな大ゲサな、子供の夢みたいなことを、本気に考えてはいけない。時間というものは、自分が生れてから、死ぬまでの間です。
 大ゲサすぎたのだ。限度。学問とは、限度の発見にあるのだよ。大ゲサなのは、子供の夢想で、学問じゃないのです。
 原子バクダンを発見するのは、学問じゃないのです。子供の遊びです。これをコントロールし、適度に利用し、戦争などせず、平和な秩序を考え、そういう限度を発見するのが、学問なんです。
 自殺は、学問じゃないよ。子供の遊びです。はじめから、まず、限度を知っていることが、必要なのだ。
 私はこの戦争のおかげで、原子バクダンは学問じゃない、子供の遊びは学問じゃない、戦争も学問じゃない、ということを教えられた。大ゲサなものを、買いかぶっていたのだ。
 学問は、限度の発見だ。私は、そのために戦う。