先日、DJのタイラダイスケさんにお声かけいただいてFRIENDSHIP.の講習会で、メンタルヘルス関連のお話しをしてきた。

いくつかのテーマに関して話をしてきたのだが、まず「メンタルヘルスを考えることも、アーティストのプロデュースも共通するところがあって、それは『個』をみるということが大切」ということを最初に提案した。

どんなことにも基礎的となる知識があって、まずそれを知ること、知らせることが必要になるけれど、それはあくまでも個々をそれぞれ見ていくための出発点であって、そこから先は、一人一人同じ人間はいない、という前提でその都度最適なやり方を一緒に探していくことになる。そもそも、厳密に言えば僕たちがそれぞれ見えている世界も聴こえている音も、実は同じではない。得意なこと苦手なことも違う。これはなんらか支援する側も支援される側も、両方とも意外と忘れてしまいがちなところで、つい自分の経験や価値観、社会からの圧力や要請などを優先してしまうことがある。そうするとどこかに無理が生じてしまう。

一方で、矛盾するようだけど、一人一人違う存在でありながら同時に共通することがある。それは「私たちは皆人間である」とか「皆が幸せでいられる方が良い」とかそういうことだけど、それも大切にしたいと思う。

そういうことを考えて人と接して生きていくのには、もう少しゆったりとした時間の流れが必要なのではないか、と思うことがある。フランツ・カフカは「すべての、人間の過失は、性急ということだ」「性急の故に我々は楽園から追出され、怠惰の故に我々はそこへ帰ることができぬ。併しながら、恐らくはただ一つの根元的な罪悪があるのみであろう。性急。性急の故に我々は追放され、又、性急の故に我々は帰ることができない。」と言っていて、この言葉の真意は他にあるのかもしれないけれど、現代ではその「性急」による害は結構大きいように感じる。

少し立ち止まったり、深呼吸してみたりできる時間。個々のあり方をお互いに受容しあうための時間、誰かが何かをするのにベストなタイミングまで待つことのできる余裕。日常生活でのコミュニケーションから、進学や就職とか、なんらかの成果を出すだとかのもう少し長いスパンの話でも、それぞれの人にとって最適な時というのがあるはずだけれど、ついなんだかよくわからない、社会がいつの間にか間隔を決めて設置したハードルを急いでそれどおりに跳ばなきゃいけないような気にされてしまう。よほどの緊急事態な時は別だろうけど、「すべての、人間の過失は、性急ということ」なのかもしれない。

特に、若い人には、そんなことも少し考えてほしいと思う。自分のペースで。もうすぐ9月。