星野文月さんの新作エッセイ『プールの底から月を見る』(SW)が本日11月27日から発売される。先日僕は星野文月さんにインタビューする機会をいただいて、それはこちらに掲載されているので、ぜひ読んでいただければと思います。

ここでは、僕はカウンセラーという一面もあるので、この作品から感じ取れる心理学的な面からの考察を書いておこうと思う。ただ、ひとつ注意しておきたいことがある。それはこの『プールの底から月を見る』という作品は、最初から色々と解釈を加えていくような読み方ではなく、まずは、ただ自分の感覚を大事にしてそのまま言葉を感じ取ってほしい、ということだ。そうすると、自分の意識や感覚が拡張されていくような素晴らしい読後感が得られると思う。その体験を無くしてしまうのはとてもとても惜しい。なので、まだ作品を読んでいな人は、ここから先の文章は読まないことをお勧めする。そして、2回目、3回目とページを開くときに、気が向いたら読んでみると良いように思う。


「私は私でしかなくて、憧れてみたところで他の誰かにはなれないということを、ようやく実感を持ってわかってきたような気がする」

「気がつけば、そこは私にとっての『安全な場所』になっていた。何を思っても、発言しても受け止めてくれる人が、場所があるということが、こんなにも自分を安心させてくれるのだということを私は初めて知ることになった」

「立派になりたいとか、何かを成し遂げなきゃ、ということはもうあまり考えることがなくなって、気楽にたのしく生きていけたらいいな、と思う。湖も、それを囲っている山も、ずっと同じようにここにあって『ただある』ということに私はこれまでずっと支えられていたのだろう。」

*『プールの底から月を見る』より

自己肯定感

「自己肯定感」という言葉は誤解を伴って使われることがある。
例えば、「誰かのために役立つ」とか「何かの成果を得られた」というようなことによって得られる自分への自信などを自己肯定感と言うような場合だ。これは必ずしも間違っているというわけではないが、もっと深い自己肯定感とは、何かができるとか役に立つとか、そういったこととは関係なく認められるべきもので、臨床心理学者の高垣忠一郎氏の言葉では「自分が自分であって大丈夫」という感覚のことだ。最初の自己肯定感は「自己効力感」と結びついた「機能レベル」の肯定であるのに対し、これは「存在レベル」での肯定になる。「何かができる」「役に立つ」という機能レベルでの肯定は、それがなければ存在が許されないかのような状況も生み出してしまう危険性があるのだ。「自分が役に立っているという『自己効力感』『自己有用感』を得ることは大切であるが、それにとらわれないことも大切で、周囲の期待する必要に応えることによって、はじめて自分の存在が許されるかのような気持ちにとらわれたり、なにか『役に立つこと』をしていなければ自分の『居場所』がないかのような強迫観念に駆られたりするのは、本来の自己肯定感からは遠い。まず何よりも「自分が自分であって大丈夫」という自己肯定感を持つことが重要なのだ。

ジャッジフリーという考え方

また、学校や社会の中での過剰な競争原理の影響で、他者との比較にこだわりすぎてしまうと、自己肯定感を抱けなくなってしまうこともある。学校や仕事の成績や目立った活動などは、実際は、ある人のごく部分的な特徴にすぎない。しかし、そのほんの一部分にしかすぎないことに振り回されて自分全体を否定的に考えてしまうと、メンタルにも良くない影響を与えてしまう。

精神科医の野村総一郎氏は、人々の悩みや不安の原因の大きなものの一つが「いつも他人と比べてしまっている」ことだとし、それに対して「ジャッジフリー」という考え方を提唱している。私たちは様々な局面で無意識に、あるいは自分勝手に、優劣をつけたり、勝ち負けを意識したり、上に見たり下に見たりというような「ジャッジ」を下しているが、そうした思考から意識的に離れ、自分らしく自然なままでいるようにすることが大切なのだ。

誰かがその人として存在することに、何かクリアしなければならない条件など何一つない

そして、何かに失敗したり、うまくいかなかったりしたとき、それに対しての反省はもちろん必要だが、一方ではそれでも受け容れられた、という経験の積み重ねも重要だ。逆に、そうした時に否定され自尊心を奪われるようなことばかりが積み重なってしまうと、自分のネガティブな面と向かい合ってそれを受け容れることができなくなったり、過度に失敗を恐れるようにもなってしまったりする。自己肯定感において、自分のネガティブな面も含めて「それが自分であり、それで大丈夫」と感じられることが大切なのだが、それには身近な周囲の人や社会が「誰かがその人として存在することに、何かクリアしなければならない条件など何一つないのだ」という認識を持つことも必要だ。

ハワイのカウアイ島で1955年に生まれた子どもたちを対象に、30年間にわたって追跡調査した「カウアイ研究」というのがある。この子どもたちの約30%は、貧困や親の不和・アルコール依存・精神障害などの環境に置かれていた「ハイリスク児」。その2/3は、10歳までに学習面や行動面で問題が起き、18歳までに非行、精神障害などの問題を抱えてしまう。しかし、その2/3の子どもたちで精神衛生上の問題を抱えていた人も、30歳になる頃には80%が回復し、非行歴のある者の75%は立ち直っていた。その転機となったのは、家族・親類・友人・先輩・教師・教会関係者などの支えがあったからなのだが、それは「パーソナリティや心身のハンデキャップの有無に関係なく、無条件に受け止めてくれる人が周囲に最低でも1人いた」ということだった。その条件が満たされれば、意外と人間のレジリエンス(回復性)は高いということがわかったのだ。

長々と書いてきたが、要するに、このエッセイからは本当の意味での自己肯定感や、人の存在のあり方、無条件に受け入れることの大切さ、などが伝わってくる。しかもそれは、不安や恐怖、痛みと向かい合うリアルさを踏まえている。これらは、今の社会に生きる僕たちにとってとても大切なことのように思う。

【わからなものを、わからないままに】

そして最後に。もうひとつこの作品から伝わってくる「わからなものはわからないままに」しても良い、ということ。「わからない」ということは不安にもつながるだろう。しかし、無理にわかろうとすることも辛い。あるいは無理矢理な解釈は誤解を生じさせる。「わからない」ということに対する距離は近すぎても遠すぎてもいけない。そして「わからない」ということは、新しい何かがそこにあるということでもある。すべてに答や理由を見出さなければならないと思い込むのも現代の病のひとつのような気がする。僕たちは、なぜなのかわからなくても、花を見て「美しい」と感じることができる。それはそれだけで大切なことなのだと思う。

■書籍情報

『プールの底から月を見る』
著者:星野文月
発売日:2022年11月27日(日)
価格:1,400円(税込)
判型:B6
ページ数:128ページ
通販:https://storywriter2.thebase.in/items/68358625