これはまだ料理ブログ『日々の料理』を更新していた頃に書いたものです。こちらに転載します。

坂本龍一の84年作『音楽図鑑』が『音楽図鑑 -2015 Deluxe Edition-』として再発された。この作品の楽典的・音響的な分析は、ライナーノーツやキーボード・マガジン等に詳しいし、 それができるほどの知識もないので僕はあくまでも僕個人として受けた印象を、感想文のように書こうと思う。

まず、その音色と音像の素晴らしさが耳に飛び込んでくるのだが、作品を通して聴いた後に残る印象は、その音楽の多様性と、一方で貫かれている坂本龍一という「個」の存在の強さだ。そしてこれは1984年に坂本龍一が呈示した、あるべき未来の形のひとつだと思った。
 

坂本龍一の過去の発言からいくつか引用してみよう。

 ——–多くの日本人は、明治と戦後の高度成長を「いい時代だった」と振り返る。しかし、それはいわば「一神教の時代」でもある。多神教的な価値観でなおかつ「いい時代」というモデルを、いまだに日本人は作ったことがない(2003.9.8 AERA)
 

 「一神教/多神教」という言葉は、宗教の形態ということだけでなく「ひとつの価値観/多様な価値観」などに置き換えて読めるだろう。
 

ちょっと政治的な話になるが僕は、今の日本は「保守であれリベラルであれ、過去しか向いていない」と思っている。今の保守が戦前に回帰するのも、リベラルや護憲派が戦後民主主義と憲法に拘るのも、視点が過去に向いている。過去に立脚している、という点では同じなのだ。
 

僕たちは、本当は「あるべき未来」を呈示して欲しい。にもかかわらず、皆が過去を向いてしまっているのだ。それは、音楽も音楽業界も同じかもしれない。
 

1984年には『音楽図鑑』を通して、ひとつの未来が呈示されていた。世界は多様性に満ちていて、その世界の中で生きる個は、それぞれが個として認められ、しっかりと自立して存在する。「僕たち」という複数形で語られながらそれは「ひとり」であるという、『音楽図鑑』の帯のコピー『僕たちはひとり』のように。

1984年から30年が経った。僕たちはどんな音楽と、世界と、「未来を」作ってきたのだろうか。坂本龍一は、過去には期待を込めて、このように語っている。

 ——-「お金はあるからガラパゴス諸島の生物のように奇妙な進化をしていくかもしれない」(89年『SELDOM ILLEGAL~時には違法』坂本龍一著)

 ——-「あんな短期間に、あれだけの富が小さな島国に集中したことは歴史上なかった。富が集まれば情報も集まる。僕が当時驚いたのは、女子高生がイランとかマリ、トルコの映画をふつうに見ていたこと。ニューヨークでもめったにかからないような映画です。世界中でも東京でしか手に入らないレコードも山ほどあった」

「その蓄積の芽はまだ育っているわけで、当時の女子高生がいまお母さんになって、これまでとは違う価値観で子どもを育てて、これから面白いものが生まれてくる可能性はありますよね。唯一、バブルでよかったのはそういう間接的な利益かなと。」(2003.9.8 AERA)

ここで「女子高生」の取り上げ方には今となっては少し微妙な感じはするけれど、1984年に撒かれていた未来の種を、期待を僕たちは引継ぐことが出来ていたのだろうか?未来をみることができていたのだろうか? 2015年。それは、今ならまだ、ぎりぎり間に合うのかもしれない。