何かに対して、ほとんどの場合、大多数の人びとは当事者ではない。

日本では年間3万人 近くも自殺者がいる。凄い数字だと思う。しかし、その自殺者と関わりのある人たちを含めたとしても、当事者ではない人たちの方が圧倒的に多い。大雑把に言って、1億人は当事者ではない。

天災によって数万人が亡くなった。これも大変な数字だ。しかし、やはり1億人は当事者ではない。

日本の障害者の人数は内閣府のデータによれば身体障害者393万7千人、知的障害者74万1千人、精神障害者392万4千人となっている。それ以外の人びとは、1億人は当事者ではない。

先の大戦で日本では230万人の戦死者と一般人80万人の死者を出した。それぞれに家族がいて、その死に直接関係する者がこの4倍いるとしても、いや10倍いるとしても、これは乱暴な言い方ではあるけれど、やはりその死に対しては当事者ではない者の方が多い。

つまり、なにかの当事者が1000万人いても、仮に何かで1000万人集まっても、この国では10%にしかならない。だから90%は当事者ではないかもしれない。

そして、「そのとおりだね」「しかたないね」「そうそう、自分には関係ないことなんだよね」「なんだかよくわからないから」と言うとき、それはつまり1000万人くらいはどうなっても良いという「わたしは残酷で冷酷な人間だ」と宣言しているに過ぎないのかもしれない。反対に、たとえ1000万人が集まって何かを叫んでも、残りの9000万人に届かなければどうにもならない。むしろ、人口の10%のみの意志で何かが決まるのなら、それは怖いことでもあるということも自覚しておかなければならないと思う。

少なくとも僕は残酷で冷酷な人間になることはいやだ。それに、深く考えなくても、誰だって何かの当事者になり得ることはわかる。ならば想像するしかない。当事者ではない人間の想像力が重要なのだと思うのだ。