僕は先日、目黒区の発達障害支援事業で講演して来たのだが、そこではあえて公民権運動と音楽の話からはじめたのだ。いろいろ話して来たのだけれど、ふたつほどピックアップするならば、それまで当然のように行なわれていた人種差別に音楽は公民権運動とともに異議を唱えて来た歴史があるということ、そして公民権が成立したのは1964年で、それはつまりほんの53年前のことであり、南北戦争からそこまで100年かかって勝ち得た物だということだ。

  つまり音楽には「それまで公然と行なわれていた間違った常識」に疑問を呈してきた歴史があるということだ。
   また、公民権運動にまつわる年数についてはふたつのことを考えなければならない。ひとつは、ほんの50年くらい前まで、アフリカ系アメリカ人たちは普通の生き方ができないことが普通だったということであり、そのときそれが普通だと思って生きていた白人たちはまだまだ沢山生きていて、ちょっと油断すれば元に戻ってしまうということだ。
   そしてもうひとつは、少なくとも100年かけて、有名無名の人たちが積み重ねて来たことがあってようやく「普通に生きる」ことを勝ち取ったという、その「個の積み重ねた歴史」の価値を大切にしなければならないということだ。

  さて、それをふまえて最近の大御所ジャズミュージシャンの騒動で思うことがいろいろあるので書いておこうと思う。いや、ほんとは書く気はまったくなかったのだ。というのも、こういうのは個別のそれぞれの事情や現場の状況というものがわからないと問題自体を把握できないからだ。それでも書こうという気になったのは、少なくない音楽関係者・愛好家たちが体罰・暴力を肯定していたからだ。

  僕が見たところ、肯定する理由はだいたい以下の3つくらいにまとめられると思う。ひとつは「皆で作り上げた音楽が台無しにされそうなところを止めるための措置だから致し方ない」「このくらいは昔からよくあること」「これは体罰や暴力ではなく、音楽家同士の摩擦」というところだ。
  それぞれにもいろいろ言いたいことはあるが、要は「(素晴らしい) 音楽を生み出すにはこのくらいのことは普通」という「自分が属しているコミュニティの常識」になんの疑問もなく従っていて、「それを乱す者には暴力も肯定されることもある」ということと「昔は(昔から)このくらいふつう」だと思っているということだ。

   まず、はっきり言っておこう。
   上記のようなことは、「もうこれからの時代にはついていく気はありません」「なんと言われようと昔の方が 良いんだ」と、思考停止していますと自白しているようなものだ。僕はなにも古い価値観を否定しているわけではない。そうありたいと思って生き続けることはかまわない。しかし、なんら考えることなく自動的に 「そんなもんでしょ」と言い張るのはだめだ。体罰や暴力に関する議論がどれだけ積み重ねられてきたことか。それを「音楽」だけは例外だというのか。音楽が、それまでの悪しき慣習を変えていく運動とともにあったことを、音楽愛好家たちは忘れたのか?

   今回の騒動で思ったのは、いかに人が自分の属するコミュニティの常識と過去からの暗黙の慣習を優先して判断してしまうか、ということだ。

   もうひとつはっきり言おう。
   アートが人の存在や尊厳を超えて重宝されてはならない。音楽のために誰かの尊厳が侵されてはならない。もっと大げさに言えば、アートは 命の尊厳を超えない。それは僕が再三言っている「個が社会のために犠 牲になることを肯定してはならない」ということと同じだ。
   それが、自分がなんらかのコミュニティにばかり属していると見えなくなる。いつの間にか主語が自分ではなくそのコミュニティになる。「僕はこう思う」と言っていても、その発想は、曖昧な「社会」の代弁 になっている。そして、そのコミュニティのために個を犠牲にしていても気づかない。いつのまに自分が「良い暴力と悪い暴力」を判定できる人間になっていることに気づかない。
   僕は、誰かが認めることができる暴力や、誰かが暴力の良し悪しを判定することなど肯定しない。判定できると思っている人間は、自分が飲み込まれている社会や後ろ盾としている社会の中で、自分が特権階級にいるという前提があるだけだ。「昔は良かった」式の言説を繰返すひとは、その時代に自分が特権階級にいられるという仮定を無意識に設定していることに気づいていない場合が多い。もしくはこれまで自分が受けて来た暴力を肯定することでしか消化できていない、自分も苦労したからお前も苦労しろ、と言っているだけだ。

   じゃあ、どうすれば良い?とすぐに問われる。ちょっと待って欲しい。「まず暴力は無意味だ」ということから始めて何が悪い?解決方法 は人が100人いれば100通り考えなければならない。その都度考えなければならない。でも考えるには考えるべきスタート地点を設定しなければならないはずだが、そこがそれまでどおりのことを思考停止で設定してしまえば、おかしな解決法しかなくなるだろう。

   そして、「協調性がない人への暴力は肯定される」という発想がどこに辿り着いてしまうか、ということは想像できるのではないだろうか?

   ひとりの音楽好きとしてはこんなふうに思う。