年末になんだが、「孤独」について考えてみた。
まず、「孤独」とは良いものでも悪いものでもない(良くもなるし悪くもなる)という前提で、孤独に対して、本人に自覚がある場合とない場合にわけて考えてみる。
自覚がない場合、「それが孤独だと思っていない」のか「それが孤独だと気づいていない」のか。
「孤独だと思っていない」の場合、他人から見たら孤独のように思えるけれど、本人はそう思っていないということかもしれない。
たとえば、友人の数に対する考え方は人によって違うし、友人とは何かという定義も人によっては違うので(友達の定義が「頻繁に遊びにいく」とかだったら、僕にはひとりも友達がいない)、孤独か否かはあくまでも本人の意識による。
「それが孤独だと気づいていない」というのは、大勢の「友人」たちに囲まれているけれど、その実は・・・ということだってあり得る、というようなことだ。これは、他者による「孤独とはこういうものだ」という価値観にすり合わせて、自分がどう感じているかは置き去りに「これだけの人に囲まれて生きている私は孤独ではない」と「思い込んでいるとも言えるかもしれない。実際はやはりあくまでも自己の内的なところと一致するかどうかが重要なので、端から見てどうかはあまり関係がないのかもしれない。
「自覚がある場合」にもいろいろある。
自らがその状況を選択している場合もある。たとえば何かに専念したいとか、心の平安を得るためとか、そうした目的があって孤独になっていることがある。これは特に問題はない。
ただし、あまりに長期に渡ってそういう状態になると、情報不足になったり、必要な支援を得られなくなってしまったりするかもしれないから、そこには注意が必要だ。逆に言うと、情報不足に気をつけたり、必要な時に必要な支援を得られる体制と心構えを忘れなければ、孤独というものはいかようにもなるということかもしれない。
あるいは、「これは孤独に違いない」と思い込んでいる場合もあるかもしれない。その場合は、さっきの孤独に対する無自覚の例と構図は同じで、本人が実際にどう感じているかを置き去りにして、外部の価値判断に合わせすぎてしまっているかもしれない。
人は社会的な動物でもあるから、社会との繋がりが希薄になると、生物学的にも社会学的にも、不安を憶えてしまうという説がある。確かにそういう側面はあるように感じる。また、長期の孤独がメンタルに悪い影響を与えるという論は多々ある。
ただ、ある人にとって必要な人との繋がり方やその濃淡、多寡は人それぞれだから、それはやはり「自分に訊く」ことが大事なのだと思う。また、社会や世界との繋がりは、直接的な人間との繋がりだけとは限らない。自分が大好きな音楽や小説や映画や、そうしたものからも沢山の社会や世界と繋がっていける。そしてそれに救われたり、身近な人との繋がり以上に広く自由な世界にいけることがある(僕なんかはおっさんなので、自分の体験からそれは本当にあるんだよ、と若い人には言いたくなる)。あるいは、今こうして生きている日々の生活の営みには、至る所に他人の大小さまざまな積み重ねと繋がっている。そのことをたまに思い出してみるだけでも、世界は違ってみえるかもしれない。
そんなことを年末に考えた。