今Rolling Stone JAPANで、『世界の方が狂っている 〜アーティストを通して考える社会とメンタルヘルス〜』という連載をやらせてもらっているのだが、そこにはメンタルヘルスや発達障害などの多様な人の特性について、「当事者や支援者のような詳しい人はどんどん詳しくなっていくけれど、そうでない人は知らないまま」という状況を少しでも変えられたら、という思いもある。
そうした「知らない人に届けるために」参考になるかもしれない理論に「キャズム」がある。
「キャズム」とは、アメリカ合衆国のIT関連のマーケティング・コンサルタント、ジェフリー・A・ムーアが著書『キャズム』(1991年日本語版・翔泳社)で提唱した概念と理論。「キャズム」は辞書的な意味では「深い割れ目」「深い溝」「深い淵」という意味だが、彼は、新しい製品や技術が、初期の市場からメインストリーム市場に移行する前には、深い溝がある、と指摘した。
まず、市場を構成する人々を、イノベーター、アーリー・アダプター、アーリー・マジョリティー、レイト・マジョリティー、ラガードの五つに分類する。それぞれの説明をムーアは以下のように例え話で説明している。
「いつ、電気自動車を購入しますか?」この問いに対する答えから、読者のみなさんがテクノロジー・ライフサイクルとどのようにかかわっているかを推量することができる。ここでいうテクノロジー・ライフサイクルとは、新たな製品が市場でどのように受入れられていくかを理解するためのひとつのモデルである。先の問いに対する答えが「永久に買わない」なら、その人は新たなテクノロジーにはまったく興味を示さない人、すなわちわたしたちのモデルでいうところのラガード(無関心層)にあたる。もしも「電気自動車の効用が証明されて、電気自動車向けのサービスステーションが街中で見られるようになったら買う」なら、その人は現実的な購買者、すなわちアーリー・マジョリティーである。「ほとんどの人が電気自動車に乗り換えて、ガソリン自動車を運転することが不便になってきたら買う」なら、その人は追随者、つまりレイト・マジョリティーである。逆に、近所でまだだれも電気自動車を持っていないときに買おうとする人は、イノベーター(革新者)あるいはアーリー・アダプター(先駆者)である。
また、それぞれの特質を以下のように解説している。
<イノベーター>
新しいテクノロジーに基づく製品を追い求め、最大の関心ごとは新しいテクノロジーであり、どのように役立つかは二の次。どの市場セグメントにも多くはないが、ここの注目を集めることは初期に欠かせない。
<アーリー・アダプター>
かなり早い時期に新製品を購入するが、イノベーターほど技術志向ではなく、それがもたらす利点を検討し、正当に評価しようとする。現在の問題を新たなテクノロジーが解決する可能性が高いと判断すれば、他社の導入事例に影響されず購入する。
<アーリー・マジョリティー>
アーリー・アドプターとは、実用性を重んじる点で大きな違いがあり、購入する前にほかでの導入事例を確認してから購入する。このグループは多数なため、ここへどのようにアプローチできるかが大きな利益を得るためには重要。
<レイト・マジョリティー>
アーリー・マジョリティーと共通の特性が多いが、大きく異なるのは、業界標準が確立されるまで待ち、実績のある大企業から購入したがる傾向がある点。このグループも多数を占める。
<ラガード>
さまざまな理由により、新製品には見向きもしない人たち。新しいテクノロジーが田の製品に組み込まれていて自分で知らず知らずのうちに購入しているような場合をのぞき、自ら購入することはない。
この分類自体はムーア以前から提唱されていたモデルだ。ムーア以前の理論では、イノベーターとアーリー・アダプターを合わせた層に普及した段階(普及率16%超)で、新技術や新製品などの流行は急激に拡がっていくとされていた。したがって、イノベーターとアーリー・アダプターにアピールすることが新製品普及のポイントであるとされてきた。
ところがムーアの提唱したモデルでは、図のようにそれぞれの五つの分類の間には断絶があり、その中でも、アーリー・アダプターとアーリー・マジョリティーの間には深い溝=キャズムがある、という。
先にみた分類でも、両者には共通するところはあるが、アーリー・アダプターの目的が、主に「リスク込みで変革の手段を求める」ことであるのに対し、アーリー・マジョリティーの主たる目的は「業務効率の改善」と「不安と混乱のない導入」であり、大きく異なる。そのため、この二つのグループの間で要求される内容も大きく違ってくることになる。もし、その違いを意識することがなければ、どうやってもアーリー・マジョリティという多数派のグループへと届くことができないのだ。
それでは、どのようにしてこのキャズムを越えれば良いのか。
それは、全力を一カ所に集中し、ある特定の層に向けた「ホールプロダクト(完全な製品)」を作り上げることだ。
注意すべき点は、アーリー・マジョリティーのいる市場「全体を」相手にしないということだ。アーリー・マジョリティーが欲しがるのは「不安と混乱のない導入」だからだ。つまり100%の解決策を求めている。アーリー・アダプターが、「多少のリスクを負っても将来的に有用になれば良い」と考えるのとは違いがある。そのようなホールプロダクトを実現するためには、全力を一点に集約しなければ難しいだろう。小さくても、確実な足がかりとなる「橋頭堡」、足場を、アーリー・マジョリティー市場につくり、そこに全力を集中したホールプロダクトを投下し、その一点を占有することが大事なのだ。そこから、周囲のアーリー・マジョリティー市場に拡散させていく。
こうしたイメージは、さまざまな分野において応用できるだろう。何らかの製品を販売するということだけでなく、何か新しい考え方を広めようというケースにもあてはまる。
キャズムを超える際に、「橋頭堡」をアーリー・マジョリティーにつくる際に重要なのは、「ターゲット・カスタマー」の特徴づけだ、とムーアは言う。「ターゲット・マーケット」ではないところに注意が必要だ。つまり「市場」という漠然としたものよりも、「カスタマー」、「人」を想定することだ。
マーケットは人格を持たない抽象的な存在だ。したがって、そこから明確なイメージをわかせるのは困難。必要なのは顧客のイメージをしっかりと固めることであり、そのあとで顧客のニーズに応えるかたちでマーケティングを進めていく。考えうる一人一人の顧客ごとに、できるかぎり多くの特徴を抽出し、その結として20〜50の特徴が現れる。そしてその中の類似したものをグループにまとめると、8〜10種類の異なる特徴が残る。その「材料」を使って、まず次の4つのポイントを検討し、マーケットをセグメントしていく。
1 ターゲット・カスタマーについて、特徴をしぼってイメージできるか、そこと接点はあるか、対価を支払える余裕があるか
2 そのカスタマーに購入の必然性があるか?
3 自分(たち)が提供するものが、購入の必然性に応える「ホールプロダクト」であるか
4 競争相手はいるか。
この中でなにかが極端に低い場合はうまくいかない可能性が高くなる。また、この中でもとくに「購入の必然性」がどのくらい高いかは比較的重要になる。
なにか新しい考え方を提案する場合ではどうだろう?
まず、イノベーターやアーリー・アダプターのような人たちには、比較的早く理解と賛同を得られるかもしれない。しかしそこでは盛り上がっているようであっても、全体からすれば少数派だ。
もしも、より多くの人々にその理解と賛同、そして協力を得たいと思うなら、キャズムを越えなければならない。何か新しい提案をする際には、無意識に染み付いている、これまで正しいとされていた意識と、導入するにあたって、相手がどのように感じるかに思いを致す必要がある。仮に同じようになにかの改善を求めていても、「リスクも含めて変革を求める人」と「不安や混乱のない導入を求める人」とではその求めるものが大きく違う。その間には「溝」があるのだ。自分がその考えを届けようとしているアーリー・マジョリティーにいる人たちはどんな人で、その人たちに、その考えに賛同する必然性があるのかを考える。そして、それは「不安や混乱」を伴わず、に移行できるものであるのか、仮に不安があるとしても解消できるのかを考え、その意義を「相手を否定することなく、アサーティブに提案をする」ということになる。