1990年代以降活発に議論された思想に「多文化主義(マルチカルチュラリズム)」というものがある。これは広義には、「それぞれ異なる多数派文化・少数派文化・先住民文化などが一つの国家ないし地域ないし物理的空間に競合している場合に、それらを同化させてゆこうとすること(同化主義 assimilationism)ではなく、それぞれの文化の自律性を最大限に尊重することを通じて、望ましいかたちで相互の共存を図ってゆこうとする考え方」(「多文化主義の批判的検討 公共的対話空間の理論的前提としての」中野昌宏・日本公共政策学会年報1998)のことだ。カナダの哲学者、チャールズ・テイラーなどが代表的な論者として知られている。
この考え方について、先ほど引用した部分だけを読むと、特に問題はないように思えるかもしれない。しかし、様々な議論の中で、この多文化主義には批判的な意見も多数生まれた。その中でも、「結局、その文化を設定するのがなんらかの権力側で」「文化というものが過剰に本質主義化してしまう」と、それは抑圧を生む、という指摘が重要だ。これを別のことばで言うならば
「人間の多数性もしくは複数性は、たとえばデイヴィドソンにしたがって考えるならば、その単位は個人であるべきで、何らかの集団であるべきではない。」(「多文化主義の批判的検討 公共的対話空間の理論的前提としての」中野昌宏・日本公共政策学会年報1998)*デイヴィドソン=ドナルド・デイヴィドソン(アメリカの哲学者1913-2003)
ということだろう。これはダイバーシティを考える上でも重要な問題だ。例えば、古い事例になってしまうが「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」で有名な福沢諭吉の『学問のすすめ』には次のような言葉が残されている。
「国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄てゝ、国の威光を落さゞるこそ、一国の自由独立と申すべきなり」(初編)
「初編第六葉にも云へる如く、日本国中の人民一人も残らず命を棄てゝ国の威光を落さず……」(同、三篇)
ここには、国家のためには命を棄てよと明確に宣言されている。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言いながら、そこには、本当の意味での多様性は存在していない。あくまでも「誰かが許可を与える範囲での多様性」であり、その「誰か(ここでは国家)」が死ねと言うならば死ななければならないものだった。
世界に目を向けても、先進諸国では多文化主義的な政策が展開されていたが、現実的には様々な軋轢を生じさせ、2010年にはドイツのメルケル首相が「多文化主義は完全に失敗した」と発言し、物議を醸すことになった。ダイバーシティの重要性を声高に言うとき、それが単に「自分(たち)にとって望ましいと思われる多様性」「何らかの集団・権威権力によって認められた文化」のみを受け入れよう、という姿勢になっていないか、ということへの自省と確認が重要だと思う。これはSNSを通じた「連帯」が広がりやすい現代においては特に必要な意識だと思う。
もう一つ、「文化相対主義」という考え方がある。これは、簡単に説明すると、世界には様々な文化があって、それには優劣がない、とする考え方だ。アメリカの文化人類学者のクリフォード・ギアツは「何より重要なのは、他の人々の生を私たちは私たち自身が磨いたレンズで見るし、彼らは私たちの生を彼らのレンズで見るということをはじめて主張したのが、人類学だということです」(『解釈人類学と反=反相対主義』)と言っている。
そうすると、「忌まわしい過去から続く因習(生け贄など)も認めるのか」「ナチズムも文化として認めるのか」というような批判もされることになる。しかし、文化相対主義は、いろいろな不具合を抱えながらも「お互いに違う」「多様性を多様性としてそのまま見る」という前提に立って、理解と対話を目指す「姿勢」のことでもある。この姿勢に関しては、相対的でなく、逆に普遍性があると思う。現時点では時代を移動することはできないし、すぐに社会を変革したり、自分が暮らしている環境を変えたりすることが難しい場合もあるだろう。しかし、それでも、「お互いに違う」「多様性を多様性としてそのまま見る」という前提に立って、理解と対話を目指す「姿勢」を持って、どのように折り合いを付けていけば良いのかを考えなければならない、ということなのだと思う。そして同時に大事なことは、決して「自己を否定する」ということではない、ということだ。