韓国で大統領によって戒厳令が発布され、それを国民や議員たちがひっくり返すという、とても大きなできごとがありました。そこで、「民主化」という言葉について自分なりにあらためてざっくりと確認し、考えたことを書いてみました。
◾️民主化に必要な3要素
「民主化」とは「民主主義化」つまり他の政治制度(独裁体制・権威主義体制などから)「民主主義に到達するプロセス」のことです。それには以下の3つが必要になります。
1民主的な制度
2民主化を機能させるシステム
3民主化を支える社会・経済基盤
が必要になります。
◾️民主化を機能させるシステムに必要な4要素
この中の2については、さらに
①国家権力バランスの改善
②政府の意識・能力の向上
③社会集団の公平な利害調整メカニズム
④市民のエンパワメント
の4つが必要とされます。
①〜③が主に政府やシステムの問題であるのに対し④は市民の課題です。これには市民自身の意識や能力の向上、積極的な政治参加と政府行政に対するチェック機能、市民同士の尊重し合う姿勢、そうしたことを育むための教育、が必要となります。
大切なことは、制度やシステム、社会基盤が揃うことだけでは民主化はなし得ない、ということです。市民自身の向上とそのための教育が不可欠です。日本社会で今後どのくらいこれに取り組んでいけるのか、課題だと思います。
◾️合理的無知
また「合理的無知」という問題があります。
これは、簡単に言うと「日々自分にとって有益な情報を得るために費やす時間やお金(コスト)を、政策を評価するために使う気になれない」という「合理的な選択」の結果として「無知」になる、ということです。
人々が経済的な合理性のみを優先するならば、合理的無知を選択するのはある意味当然です。仮に、何らかの政策を評価するために新聞やWEBの記事、書物などを毎日時間をかけて読んだとしても、個人には1票しかない(と考える)ならば、そこからの見返りはとても少なく感じられ、日々の生活でもっと見返りを得られるような情報収集に時間もお金も費やした方が良いと考えるわけです。そうした状況では、政策に関して吟味するような人は、政治が好きとかそうした議論が好きという、いわば「趣味人」に限られてしまいます。
また、有権者に対して情報を届けるためにはコストがかかります。そうすると、そのコストを負担できる人や集団の方が政治的に有利になります。特に経済界はそうした力を持ちやすくなりますので、どうしてもそちらにバイアスがかかってしまいます。政治家も、有権者を説得するよりは、無知や誤解をそのままにして、あるいはむしろそれを増幅させてポピュリズムに走ったほうが合理的になります。
◾️アテンション・エコノミー
そこへ、さらに「アテンション・エコノミー」が加わって、特定の利益に向かう方向へ誘導していきます。
アテンション・エコノミーとは1997年にマイケル・ゴールドペーパーが提示した言葉です。世界経済が「物質ベースの経済」から「人間の注意・関心に基づく経済」へと移行しているという見方です。
ごく簡単に言えば、膨大な情報の中で注意を向けてもらうことに価値があり、それ自体が資源であり、通貨になり得るということです。さらに言うならば、できるだけ合理的・効率的に他の何にも増して注目されることが目的で、それによって利益を得る経済です。しかしアテンション・エコノミーには強い副作用もあります。意図的に特定の方向に誘導されることの危険性、アテンションを引くためのフェイクニュース、フィルターバブル、ネット工作の横行などがあります。
これらの問題を防ぐためには、アカデミズムにいる研究者たちによる啓蒙活動、政治に関心を持つこと自体に魅力を感じさせるような、それがコストをかけるだけの価値があるものなのだと思えるような意識の開墾が必要ですが、現時点では、うまくやる方法がまだ見つかっていないように見えます。
◾️リチャード・ローティ「感情教育」
この状況を打開する一つのヒントとなるかもしれないと個人的に思ったのが、アメリカの哲学者のリチャード・ローティの考え方です。
ローティは「自己の良心は必然性に基づく合理的なものというよりも、生まれ育った文化的環境によって育まれた偶然的なもの」と考えています。そして、偶然的なものであるけれど、他者の残酷さや苦痛に対する感受性によって、残酷さや苦痛を受けている人に対して共感することによって他の多くの人々が連帯し、その残酷さや苦痛をできるだけ減らそうとすることによって、社会の道徳が形成される、と考えます。
しかし、現実的には、遠い異国の人々のことよりも、自分の家族などの身近なところの方が気になるものです。また、度々発生する虐殺などは「〇〇人」は「我々とは違う存在」、つまり極端に言えば「〇〇人は偽人間・非人間」であるから「浄化の対象」となり、つまり共感の対象とならないことによって起きてしまいます。
また「アイロニー」が必要だとも言います。ここで言う「アイロニー」とは「皮肉」ではなく、「自己という存在に対して徹底的に懐疑的であること」、「自己を相対化する視点を持つこと」です。アテンション・エコノミーに巻き込まれないためには必要なことだと思います。
感情教育
問題をできるだけ解消するためには、「我々の仲間である」という意識をどれだけ拡張できるかにかかっていて、それは「感情教育」によって育まれるとローティは言います。それは、残酷さや苦痛を共感できるような物語を通じて、その意識が教育されて強くなっていきます。ジャーナリストによるレポート、漫画、小説、映画、などはその役目を担います。アーティストやクリエイターたちは、もっと「感情教育を担っているのだ」という意識を持って良いのではないかと僕は思います。
しかし、その感情教育は「安心な状態にある人たち」、具体的には「くつろいだ気分でそれに耳を傾けられるほど、十分な時間的ゆとりのある人たちにしか効果がない」ともローティは言います。そしてそうした「安心」は「自尊心または自己に価値があるという意識を持つのに、自らと他者の区別立てを必ずしも必要としないほど十分に危険のない生活状態」です。
◾️本来の「自己肯定感」とは
これは「自己肯定感」という言葉にも置き換えられるでしょう。しかし今この「自己肯定感」という言葉は、やや偏った解釈をされて広まっているようにも感じます。
例えば、誰かのために役立ったとか、何かの成果を得られた、というようなことによって得られる自分への自信などを自己肯定感と言うような場合です。これは必ずしも間違っているというわけではありませんが、もっと深い自己肯定感とは、何かができるとか役に立つとか、そういったこととは関係なく認められるべきもので、臨床心理学者の高垣忠一郎氏の言葉では「自分が自分であって大丈夫」という感覚のことです。
先述の自己肯定感が「自己効力感」と結びついた「機能レベル」の肯定であるのに対し、これは「存在レベル」での肯定になります。「何かができる」「役に立つ」という機能レベルでの肯定は、それがなければ存在が許されないかのような状況も生み出してしまう危険性があります。
高垣氏は「自分が役に立っているという『自己効力感』『自己有用感』を得ることは大切であるが、それにとらわれないことも大切だ。周囲の期待する必要に応えることによって、はじめて自分の存在が許されるかのような気持ちにとらわれる人、なにか『役に立つこと』をしていなければ自分の『居場所』がないかのような強迫観念に駆られている人をみれば、そのことがわかるだろう」と指摘し、まず何よりも「自分が自分であって大丈夫」という自己肯定感を持つことの重要性を説いています。
また、学校や社会の中での過剰な競争原理の影響で、他者との比較にこだわりすぎてしまうと、自己肯定感を抱けなくなってしまうこともあります。学校や仕事の成績や目立った活動などは、実際は、ある人のごく部分的な特徴に過ぎません。しかし、そのほんの一部分にしかすぎないことに振り回されて自分全体を否定的に考えてしまうと、メンタルにも良くない影響を与えてしまいます。本来「人が存在する」と言うことに、クリアしなければならない条件など何もない、という共通認識を持つことが必要です。
◾️多様性について
そうなると、世の中にはいろんな人がいますがそれらを全て尊重する、ということになります。これがダイバーシティ(多様性)です。ただ、多様性とは「良いものでも悪いものでもない」のです。それは「ダイバーシティ=世界は、人は、多様である」ということは単に「事実」なのです。事実を否定したり、見ていなかったりすれば、そこから導き出される答えは、当然間違ってしまいます。
また、「多様性を認める」と言ったときに「それでは〇〇のような(ひどい)行為も認めるのか」というような意見が出る場合もあります。ここでの「認める」は、「良い評価をする」などの意味ではなく、「その存在を認識する」ということだと思います。その存在があるということはしっかりと認識して、どうすれば上手くやっていけるのか最適解を考え続ける、ということです。
先述のローティはローティは、真理の発見ではなく、「会話」の継続を重視しました。会話とは、異質な諸個人が異質性を保ちながら行う営みであって、ひとつの結論、ひとつ真理に達することを目的とするわけではありません。人は、本質的に相手との相違点を見出したとしても、それについての合意や、説き伏せるといったことなしにも、その人と接しながら会話を続ける程度に関係を保つことができる、といいます。現代社会では、この姿勢がとても大切なのではないかと思います。
<参照>
『民主的な国づくりへの支援に向けて〜ガバナンス強化を中心に』(国際協力事業団・国際協力総合研修所2003)
R・ローティ「人権」論の精査―その批判的継承に向けてー 安部彰 Core Ethics Vol.2(2006)