意識しないと、自分が強者であるということに気づかないことがある。あるいは、どんな人でも相対的に強者/弱者のいずれかになり得る、ということを忘れてしまうというふうにも言えるかもしれない。

自分自身のことを考えてみたとき、そんなに社会的に強者の部類に入っているような実感はあまりないのだけれど、とりあえず「普通に」生活できているし、今のところとりたてて心身ともに健康を害しているようなこともないということだけをとっても、僕は相対的に強者になるのだろう。うちには小さな子どもがいるが、僕との強弱の関係であれば、僕が望む、望まないに関係なく、僕の方が強者になっているだろう。

自分が強者であるという自覚を失うと、自然と弱者を抑圧していることに気づかない。誰かよりもなんらかの強い力を持っている、というだけでなく、たとえば「わたしは努力してこのように乗り越えて来た(だからあなたもそうすべき)」というようなことも、自分がそのような努力をできるという幸運に恵まれていたということへの自覚、すなわち強者であるという自覚がなく、弱者を抑圧してしまっている。

そして、自分が強者であるという自覚がないまま「わたしたち(あなたたち)は対等な関係だ」更には「自分は弱者だ」と勘違いしてしまうと厄介なことになる。どちらかが客観的にみて強者である時に「お互い話し合って納得したんだよ」というのは、本当にそうなのか、よほど気をつけないと危ない。いじめ問題なんかでも、加害者被害者の両者を呼んで「はい、仲直りね。これでOK !」とかやってもあんまり意味がないだろうに、強弱の構造に無自覚だとそういう無神経なことをやってしまう。さらに「自分も弱者だから」と強者が言うのもたちが悪い。強者には強者なり、というか強者であるからこそできること、やるべきことがあるわけで、それを「自分も弱者だ」としてしまうと、単なる責任逃れに陥ってしまう危険がある。

「強者/弱者」という分け方以外にも、「適応できる人/できない人」などでも良いかもしれないが、人それぞれが持つ特性や置かれている状況は違うわけで、それを無視した関係性は、それだけで「暴力的」なものになる危険性があるのだと思う。