昨日は七夕。
各地で大雨による災害が発生していて、七夕どころではない方々がたくさんいる。その一方で無邪気な願い事を短冊に書き、楽しく遊んだり、素麺を食べたりして過ごしている子どもたちもいる。この瞬間を、それぞれがいろんな思いを抱えて生きている。七夕のような、多数の人に共有されているイベントは、それをきっかけとして、いろんな思いがあるということを確認できるという面もある。

ちなみに、今年のうちの娘の願い事のひとつはこうだ。

子どもに限らず、定番の願い事のひとつだろう。ところが、これを彼女が書く前に、こんなやりとりがあった。

「さて、短冊に願い事を書こうか」と僕が言うと
「飾るのはいいけど、願い事は書かない」と娘が言う。
「書かないんだ。なんで?」
「前も書いたけど叶わないからだよ」
こういわれると、ちょっとドキッとしてしまう。とりあえず
「そうだね、すぐには叶わないこともあるけれど、願い続けないと叶わないってこともあるからね。」というような答えしかできなかったのだが、娘もまあそれほど頑でもなく、「じゃあ、書くよ」という感じで書かれたのがこの短冊である。

願いというのは、「自分の主張」であると同時に、「外部に働きかけるもの」であることが多い。一見自分に向けられた願いも、他者との比較によって導きだされた「こうなりたい」という願望であることも多いので、自分の外側にある何かから自分に働きかけている。

反対に、極端に言えば、自分自身を受容できていて、そうした自分自身に直接働きかけるのであれば、その願いはすべて叶う。そこには矛盾がないからだ。しかし、なんらか外側に働きかけるということは、たしかにうまくいかないことが多い。自分の外側は、そうそう思い通りになってはくれない。

そうした外部への働きかけに疲れてしまったり、外部のなにかに無理に合わせて自分を変容させすぎてしまったりすると、人は願い事をしなくなったり、もともとの願いを忘れてしまったりするのかもしれない。

選挙なんかもちょっと似ていて、自分のたった1票ではなにも変わらないような気がしてしまう。でも、それは自分自身の気持ちの確認でもあって、短冊に書いた気持ちを思い出す作業にも似ている。他人はどうあれ、自分はこうなのだ、こう思うのだ、願うのだ、と。

娘には「少なくとも自分という世界は、望めば平和にできるよ」と言ったのだけど、「わからん!」と怒られた(笑)。でも、父ちゃんはそう思うんだよ。